漆器の上手な使い方をご紹介
Q : 漆器のお手入れ方法‥‥
A : お手入れは簡単です。湯に長く浸けっ放しにせず、水かぬるま湯で手早く洗います。洗剤は使用できます。
そしてぬるいお湯で湯通しします、自然に水気が切れますので、その後乾いた柔らかいフキンで拭いて下さい。
Q : 漆器の臭いの取り方‥‥
A : 漆は天然の塗料の為同じ条件で塗られてもひとつひとつ乾燥の条件が違います。
風通しの良い室内の直射日光の当たらない場所に1週間程度置くか、2〜3回ぬるま湯で
湯通ししますと効果的です。
注意・・・米櫃にての匂い抜きは、お米に匂いがうつるため避けてください。
Q : 漆器の嫌うもの‥‥
A : タワシ、磨き粉、直射日光・乾燥・冷暖房器具のそば・極端に温度湿度の
高い場所・100度を超える料理等。
Q : 絶対に避けていただきたいこと‥‥
A : 直火、電子レンジ、オープン等での使用はしないでください。火災の危険があります。
食器洗浄器、食器乾燥機、冷蔵庫での使用は木地を狂わせ、変色することもありますので避けてください。
但し、食洗器・電子レンジ耐用の記載のある商品は大丈夫です。
Q : 漆器の花生けの取り扱い方‥‥
A : 花瓶の中の落とし金に水を長く入れっぱなしにしておきますと、中の水がくさり落とし金に穴をあけ水漏れの原因になりますので、水はこまめに取り替えてください。
Q : 重箱、屠蘇器など年に数回しか使わないもの‥‥
A : 正月しか出さないご家庭もありますが、収納しておいた漆器にいきなり熱い料理などを盛ると、その部分の塗りが落ちたり剥がれたりする事があります。
普段使っていない漆器を使う場合、ぬるま湯にしばらく浸けて、柔らかい布で水分を拭きとってからから使いましょう。
 ※漆器は生きておりますのであまりに長期間収納していると乾燥して痛んでしまいます。時々水分を吸わせて陰干しする事で長持ちします。

製品本来の用途、使用目的に添って正しくお使いください。
誤ったご使用は製品の破損や身体に危険を及ぼす場合があります。体質により、極稀に漆等の塗料でかぶれることがあります。
異状を感じたときはご使用をお止めいただき専門医にご相談ください。

漆器は本来丈夫で耐久性にすぐれたものです。しかし、いくら丈夫でも扱い方を間違えていると思わぬ故障の原因となってしまいます。
また、「漆器は好きだけれど扱いが大変で面倒だ」との声をよく聞きます。しかし、基本的な扱い方さえ守ってくだされば漆器の扱いは決して面倒ではありません。
むしろデリケートな陶器や薄いガラス器に比べて、漆器は丈夫、気軽に扱うことができます。基本は人の肌と同じように、無理なく自然に扱うこと。
人の肌の苦手なことは、漆の肌も苦手です。
Q : 漆器の苦手なこと
A : ● 漆は強い紫外線が苦手です。屋外や陽のあたる場所に長時間放置するのは避けてください。
● 薬品には強いけれど・・・お酒をこぼしてそのままにしておくと色が変わることがあります。その日のうちに洗えば大丈夫。
● 陶磁器とは重ねないで。焼き物の底で漆器を傷つけてしまいます。重ねるときは漆器を上に。
● 電子レンジは禁物です。電磁波をとおすと漆器は焦げてしまいます。
● 食器洗浄器や食器乾燥機など熱湯や熱風がでるもののご使用は慎重に。
● 火に触れればヤケドします。漆器は比較的熱に強い素材ですが、高熱にあたれば焦げます。
Q : 漆器の取り扱い方
A :

漆器に添付されている取扱声明書には「漆器は、柔らかな布を使ってぬるま湯で洗い、すぐに乾いた布で水分をふき取ってください」と書かれております。確かにその通りですが、これは年に数回位しか使わない漆器に対する保存方法です。日常使いの漆器製品(椀・盆・皿・箸など)は、それほど気を使うことはありません。
時々、椀や皿に食べ物やご飯がついてしまう場合がありますが、洗う前に椀の中に水をはるか、水に少しつけておけば何の問題もありません。
その程度ですぐに漆が剥がれてしまう漆器はどこかで手を抜いて作られた塗物です。しっかり乾燥した木材を使い、確かな技術と本漆で制作された漆器なら簡単に剥がれたり壊れたりしないものです。しかし、使用後、何時間も水につけっぱなしにして良いと言うものでもありません。急な用事で出かける場合などはとりあえず洗っておきましょう。そのまま乾いた場合、水滴の跡が残りますが品質上は問題ありません。
漆器は昔から高価なもので、丁寧に取り扱われてきたことは事実です。それは、弱いわけではありません。
だれでも大切なものは丁寧に扱うのは当然なのです。柔らかな布やスポンジなどで、薄めた中性洗剤で洗った後、布でふきあげれば大丈夫です。
これを怠り、長い期間しまっておきますと、カビの原因になります。もし、カビが生えていた場合は、消毒用アルコールを含ませた柔らかな布で拭き取ってから洗い直せばきれいになります。カビの生えた状態で何年も放置しておきますと、カビ根が塗膜に食いついて取れにくくなってしまうので要注意です。
漆は「自然からの贈り物」安全で安心して使用できる現代にふさわしいものです。

Q : 漆器の保管のしかた
A : 漆器は油汚れに強く、軽い汚れであれば湯でさっと洗うだけで十分です。
油をしっかり使った料理の後も、中性洗剤で洗えばきれいになります。
水切れもよく、さっと拭くだけでは水滴は残りません。
拭くほど艶が増すのも漆器の魅力。
毎日使用するものは直射日光の当たらない棚などにおきます。
また,陶磁器や金属などの食器とは重ねないようにしてください。
ときどき使う漆器は,薄い布や揉み紙の袋で包み、箱に入れ、冷暖房や直射日光のあたらない場所に保管します。
また、しまいっぱなしにすると乾燥しかえって痛みますので時々使ってあげましょう。
使った後に洗うことによって水分が補給され長持ちします。
しっかりと正直につくってある漆器は丈夫ですし,そう神経質になることはありません。
人間が普通に生活できる温湿環境であれば大丈夫だと考えてよいでしょう。
Q : 漆器は消耗品…
A : ●日常使う汁椀・箸など
汁椀・箸などは消耗品です。
何年か使いますとツヤ落ちや塗り剥げいたします。
年が改まる正月などに、新しい汁椀・箸に買換えますと気分も新たなものとなります。
また、長年使い込んだ商品で愛着がございましたら修理を検討してはいかがですか。
●使用頻度が少ない正月用品
重箱・屠蘇器などは正月にご利用いただいて、傷や隅割れに気付くものです。
今後とも末永くご使用いただくには、早めの対処が必要です。
ご相談をお待ちしております。
Q : 漆器を洗う…
A : ●手洗いか食洗機対応であるかを確認してください。
手洗いでないといけない商品は集中的にお湯を当てて洗う食洗機に入れますと、その部分だけ剥げたり、白くなってしまいます。
●洗剤の選び方
漆はその成分の中に脂分を含んでいます。
ですから逆に脂分などの汚れは付きにくく、落ちやすいです。
一般的な植物性の中洗剤でご利用ください。
Q : お箸のお手入れ方法…
A : 箸を傷めずに長持させたい場合は「食器洗浄機を使わない」「つけ置きをしたり、きつく洗ったりしない」「日陰に収納する」の3つを守りましょう。
まず、食器洗浄機の場合、中に入れると木や漆がびっくりして、暴れや狂いを起こす原因となってしまうので気をつけましょう。
それからよく箸の先に米粒が付着することがありますが、ぬるま湯に数分浸けておくか、食事の前に箸先を水で濡らすことで付着を予防できます。
また、日の射すところに箸を置いておくと、漆や蜜ろうが紫外線を吸収して変色することがあるため、日陰に収納するようにしましょう。
Q : 鎌倉彫を長く使うコツ… 
A : 水に濡れたときは乾いた布でふきとってください。
直射日光に長時間当てないでください。(変色することがあります)
割れやひびが入ったときは使用しないでください。
洗剤等のご使用はつや等がなくなる原因となりますので、ご注意下さい。
彫りの間が汚れたときは歯ブラシなど金たわし以外のものでかき出した後洗い、乾拭きしてください。
箱類などで彫りの間にほこりがたまった時は、筆などではらい、乾拭きしてください。
漆器は生きておりますのであまりに長期間収納していると乾燥して痛んでしまいます。時々水分を吸わせて陰干しする事で長持ちします。
Q : 竹製品の取扱い方…
A : ●湿度の高いところで長時間放置すると、カビが生えることがあります。
白カビなど表面にうっすらと生えたものは、すぐにふき取り、洗浄すれば問題ありません。
一方、青カビ・黒カビなど繊維に入り込むタイプのカビは、一旦発生すると落ちませんのでご注意ください。
カビを防ぐには、毎日使っていただくことが一番です。
そうすればカビの胞子が表面に付着することがありません。
しばらく使用しない場合は、適度に乾燥させ風通しの良い場所で保管し、たまに水通ししてください。
●極度に乾燥すると割れる可能性がありますので、ご注意ください。
割れないようにするため、定期的に水通しして極端な乾燥を防いでください。
●竹や木製品は、製作当初は素材のにおいがあります。
お使いいただくうちに徐々ににおいはなくなりますが、早くにおいをなくしたい場合は、米のとぎ汁などで何度か時間をおいて洗ってください。
だんだん気にならなくなります。ぜひお試しください。
Q : 村上木彫堆朱の保管のしかた
A : 村上木彫堆朱の完成直後の塗面は艶消処理のためほとんど艶がなく、漆特有の成分のため幾分くすんでおりますが、次のことに注意してお使いいただければ村上木彫堆朱独特の美しさを発揮してまいります。
●彫面にほこりがはいりますが、こういった時には、やわらかい洋服ブラシでほこりを取り、やわらかい布(木綿)でもう1回拭いて下さい。
●1ヶ月に1回位、やわらかい布で表面を軽くなでて下さるだけで朱色のつやが出ます。
●茶托、銘々皿、菓子器、会席膳、重箱、お盆などは、お使いになった後、水又はぬるま湯で汚れをとり、そのあと乾いたやわらかい布で拭き取って下さい。
●花びんの中の落し金に水を長くいれっぱなしにしておきますと中の水がくさり落し金に穴をあけ水もれの原因になりますので水は4日〜7日に1回位こまめに取り替えて下さい。
Q : 曲げわっぱのお手入れ方法…
A : 曲げわっぱは電子レンジの使用ができません。
熱を加える事によって、焼け焦げる場合がありますし、変形の原因にもなりますのでご注意下さい。
お櫃を はじめに使う場合、木が乾燥しているのでご飯が付きやすいので、内側を水で濡らし、その後水分 を拭き取ってからご飯を入れてください。
また、徳利、酒器等に熱い物を入れても大丈夫です。
お酒ですと熱燗にしてから容器に入れて下さい。
Q : 蒔絵とは… 
A : 暮らしを華やかに彩る蒔絵の器。光沢をたたえる黒の上に 金で施された繊細な模様。
漆黒と黄金がうみだす華麗な蒔絵は、日本独自に発展してきた技法です。
蒔絵は、まず漆で模様をえがきます。そのうるしが乾かないうちに金粉をまきつける。金をまくから蒔絵、なんです。
蒔絵の技法は奈良時代には完成していたと云われています 。
桃山時代、渡来した宣教師が注文して作らせた厨子。こうした品々はヨーロッパの王侯貴族たちを夢中にさせ、大量の蒔絵が輸出されました。 平安貴族にとって、贅沢な蒔絵はステータスシンボルでもありました。
Q : うるし(漆器)とは… 
A : 漆はうるしの木等から採取した樹液を加工した、ウルシオールを主成分とする天然樹脂塗料です。
はるか縄文時代から塗料や接着剤として使われてきました。
現在では、国産の漆の生産量はごく僅かで、大半を中国から輸入しています。
漆を塗った器は、安全性・堅牢性・耐熱性にすぐれた食器として、長く日本人の生活に親しまれてきました。
また、蒔絵などの装飾を施した漆工芸品は、世界中の人々から絶賛される日本の代表的な工芸美術品として知られています。
Q : カシュー塗とは… 
A : カシュー塗料の元、カシュー樹脂は”カシューナッツ”の殻から搾りだした油が原料です。
”カシューナッツ”はカシュー塗料の原料を含む殻に守られてカシューの樹に育つのです。
カシューの樹は漆科の植物ですが、その油は漆のようにカブレることはありません。しかし、その油を原料とするカシュー塗料は漆に似た性質を持ち、高樹脂分のためふっくらとした肉持ち感があり、光沢あふれる塗膜は一見漆と見分けがつかないくらいです。
漆器の歴史
 

漆器は、中国でおよそ4,000年前に食器として使われた記録があります。
日本では、石器時代に矢じりの接着に漆が使われたものや、土器などに彩漆をほどこしたものなどが発見されています。
日本最古の漆器は北海道の南茅部町の垣ノ島B遺跡から中国の物を大幅に遡る約9,000年前の縄文時代前期の漆器が見つかっております。
又、日本最古の漆の木が発見されたのは福井県若狭町にある約12,000年前の縄文時代の遺跡『鳥浜貝塚』です。

  1.輪島塗
  中世後期の輪島は大屋荘の中心であり、日本海側を代表する「親の湊」をひかえた中継港湾都市として栄えました。
富山湾側の中核集落・穴水町西川島遺跡群御館遺跡から出土した線刻椀(室町前期)には輪島沈金と同じ技法がみられるとともに、顕微鏡分析から珪藻土の下地が確認されました。つまり今日の輪島塗の特徴を備えた最古の漆器ということになります。
輪島塗と他産地とを識別する最大の特色は、下地に地の粉(珪藻土)が用いられていることです。これを焼成粉末にして下地塗りに用いますが、微細な孔を持つ珪藻殻の粒子に漆がよくしみこみ、化学的にも安定した吸収増量材になることと、断熱性に優れていることが重要な特色です。つまり漆とガラス質の微化石・鉱物による固く堅牢な塗膜によって柔らかいケヤキの木地が包まれ、くるい(変形)がなく熱に強い漆器の基礎ができあがるのです。輪島塗が堅牢無比といわれる理由はここにあります。
従来このような下地技法は江戸時代の寛文年間に生まれたとの伝承から、輪島塗の起源をここに求める考えが定説化していました。しかし室町時代にさかのぼる考古資料が発見されたことや輪島市内の重蔵神社に残る文明8年(1476)の棟札に塗師たちの名前がみえること、明和5年(1768)に修理された同社奥の院の朱塗扉は、大永4年(1524)造替時のものといわれていることなどを総合すると、室町時代には国人領主・温井氏の保護のもとに漆器生産が行われ、小規模な商圏が形成されていたと考えられるようになりました。
輪島漆文化のはじまり
japanと呼ばれる漆器の歴史は、近年の考古学的調査によって約6800年前にさかのぼることが、明らかとなりました。その最古の漆塗り製品は、能登半島・田鶴浜町三引遺跡から出土した竪櫛です。16本の櫛歯(ムラサキシキブ材)に横木を渡して、植物繊維でより合わせ、頭部を半円形にしています。すでにベンガラ(赤色塗料)が含まれた漆を4層塗り重ねるなど高度な技術が駆使されています。縄文時代の櫛はシャーマン(呪術者)の頭部を飾る呪具で、多くは赤色漆塗りです。赤色は生命の色、再生の色であり、精製された漆に赤色顔料(ベンガラ・朱)を混ぜることによって、より光沢と深みをました麗しい赤色に変化します。またその強い粘着性は朽ちることなく物質の永遠性を保ちます。
このようにして漆は呪具を飾る必須の塗料となりました。かぶれる漆に恐れを抱きつつも、鮮やかな永遠の生命をたたえる漆は、カミが宿る樹木として信じられたのではないでしょうか。こうした森の民の思想は今日にいたるまで受け継がれています。本物の漆器にふれたとき、何者をも優しく包み、深い異次元の世界に引きこまれます。漆はまさにいやしの塗料なのです。
輪島の品質
切り倒してから3〜5年以上をかけて乾燥させた材をもとに、さらに半年から1年の時間をかけ、124の工程を経てつくられる輪島塗。各工程は10の分野に分けられ、完全な分業制となっています。各分野は代々受け継がれることがほとんどで、徹底して専門化することで技術力が高められ、守られてきたのです。工程ごとに専門職から専門職へと手渡され、完成していく輪島塗。それぞれの専門職の人は、自分の仕事に自負を持ち、次の専門職の人に自信を持って手渡せるよう丹精を込めます。こうした工程のすべてをチェックし、コントロールする、いわばプロデューサーの役を果たすのが塗師屋。発注から販売・納品までをトータルに管理します。こうした独自の分業制が、輪島塗の品質を支える基礎になっています。各工程の専門職がすべての手作業で妥協することなく最高の品質を求める。その結果生まれたものだけが、輪島塗と呼べるのです。
輪島沈金の歴史
沈金の歴史は古く、その起源は中国にあります。
沈金は中国では鎗金(そうきん)と呼ばれ、宋王朝(618〜1279年)の時代に始まり、明王朝(1368〜1644年)時代初期に最も発達した技法だと考えられています。鎗金作品が日本に伝来したのは南北朝時代のこと。やがてその技法を真似て製作されるようになったのが、日本における沈金の始まりと言われています。
輪島に沈金の技法が伝えられたのは、江戸時代享保期(1716〜1735年)。輪島の大工五郎兵衛が中国渡来の鎗金作品を参考にして、漆器に彫刻を施したのが始まりだと伝えられています。
明和期(1764〜1771年)には笠屋佐次右衛門(かさやさじえもん)が、城順助(たちじゅんすけ、後の専助。雅号、雅水)を京都に上らせ、絵画と沈金技術を習得させたという記述が残っています。その後、城順助は輪島に戻り、今日の輪島沈金の基盤を作り上げました。輪島塗の強固な塗りの特性を活かし、また蒔絵より安価で丈夫な装飾を施せることもあって、沈金は輪島に根付き発展していきます。
明治・大正にかけて橋本雪洲(はしもとせっしゅう)や舟掛宗四郎(ふなかけそうじろう)といった沈金の名工らを輩出し、輪島の沈金は独自の発展を遂げていきますが、それまでに培われて来た沈金の表現能力を芸術の域まで高めたのが、前大峰(まえたいほう)です。前大峰はそれまで線彫りが中心であった沈金に、点彫りによる立体感や質感を生み出し、沈金の技法に大きな躍進をもたらしました。その後も前大峰に続く沈金作家や職人の手によって沈金の表現の可能性はさらに広がり、現在に至っています。
漆かき
天然のヒノキやアテ(あすなろ)の無垢を使った木地、そして、ウルシの樹液である漆。輪島塗は、森の恵みともいえます。ウルシは、古くから日本に伝わり各地で栽培されてきました。樹皮にキズをつけると、そのキズをふさぐためウルシは独特な樹液を出します。その樹液を集めることを「漆かき」といいますが、植えてから10年から15年たち、10メートルほどに成長したウルシから何回かに分けて採取します。季節は6月から10月ぐらいまで。この季節や木の個性、生育場所などによって、漆の質は異なってきます。1本の木から採れる樹液はおよそ150gほど。椀にして数個分しか採れません。また、樹液を採り終わったウルシは切り倒してしまいます。漆は、長い時間と経験に裏打ちされた技術から生まれる、とても貴重な素材なのです。(輪島漆器商工業協同組合)
  2.会津漆器
  会津の地に本格的に漆工芸が根付いたのは、天正十八年(1590)豊臣秀吉の命を受けて会津の領主となった蒲生氏郷公が産業として奨励したことによります。氏郷公は前の領地であった日野(滋賀県)から木地師(きじし)や塗師(ぬりし)を呼び寄せて先端技術を伝授させます。これによって会津塗の技術は飛躍的に進歩を遂げ、漆の栽培から加飾(かしょく)までを一貫して手がける一大産地となっていったのです。江戸時代には会津藩の藩祖・保科正之(ほしなまきゆき)公が漆の木の保護育成に努め、また歴代藩主が技術革新に熱心に取り組み、中国・オランダなどへも輸出され、隆盛を迎えます。
しかし、幕末の戊辰戦争(ぼしんせんそう)において会津漆器は壊滅的な打撃を受けてしまいます。戊辰の戦火によって焼け野原と化した会津の復興は、会津漆器の復興でもあったのです。明治の中期には、会津は日本有数の漆器産地としてその名を再びとどろかせるに至っています。四百年という時を超えて生き抜いた伝統の技の上に、常に最新技術を積極的に取り入れ会津漆器は現在まで成長を続けています。(会津漆器協同組合資料)
  3.高岡漆器
  高岡漆器は今から385年前の慶長年間、町人工芸として歩み出しました。その後、明和年間(1770年頃)に中国風の漆器を手本とした、唐草模様の盆や重箱などがつくられ、高岡漆器に新しい分野が開かれました。この技術は、国の重要有形民俗文化財に指定されている「高岡の御車山」に見ることができます。
幕末から明治にかけては、風景や人物、模様などを錆絵で描き、これに青貝とろう石をまじえた「勇介塗」が生みだされました。
また、明治中期に創案された「彫刻塗」は鎌倉時代の格調をもつ技法として独自の味わいをもっています。これらの技法をもとに盆類、茶道具、室内調度品など多岐にわたる製品づくりが行われ、昭和50年には国の「伝統工芸品」の指定を受けています。(高岡漆器資料)
彫刻塗
彫刻塗は、江戸中期に活躍した名工、辻丹甫の技法を元祖としており、その代表的なものは高岡御車山に見ることができます。
木彫堆朱、堆黒などによる雷紋や、亀甲の地紋の上に草花鳥獣、青海波、牡丹、孔雀などを彫りだしたものが多く、立体感と独特な艶が表現できるのが特徴です。
辻丹甫の技法は慕末、板屋小右衛門らに受け継がれ、明治27年に富山県立工芸学校が設立されたことを機に、新たなデザインの開発を生みました。その後は、産業としても発展し、海外にも輸出するなど幅広い評価を得るものとなりました。
現在、高岡の彫刻漆器は、色漆による彩色技法、あるいは全体を朱塗りした後、凹部にマコモ墨を入れて陰影をつける皆朱塗りなどによって数多くの作品が生み出されています。
青貝塗
青貝塗とは、鮑などの貝を刀・針等を用いて三角形や菱形の細片をつくり、これを組合わせて山水・花鳥を表現する技法で、江戸初期、当時の富山藩主前田正甫公が京都より招致した名工、杣田清輔に影響されて発展したといわれています。
高岡の青貝塗は、唐漆器写しから始まった薄貝技術と、朝鮮工人や奈良から習得し改良された厚貝技術があり、いずれも工人たちの意匠・技術の開発努力により今日の技法の確立がなされました。
加飾に使う貝は、飽貝のほか夜光貝、蝶貝、孔雀貝などの種類があり、飽貝には青色とピンク色が交互に輝く華やかさがあります。また、夜光貝は光沢に落ち着きと優雅な昧わいの輝きがありますが、いずれも貝特有の真珠色が漆の色艶とよく調和し、独特な昧わいをかもしだしています。
勇助塗
勇助塗りとは江戸末期、初代石井勇助が当時、唐物として珍重されていた中国明時代の漆器に憧れ、その研究を重ね生み出した漆器の技法です。
特徴としては唐風の雰囲気をもつ意匠に花鳥、山水、人物などの錆絵を描き、青貝、玉石、箔絵などを施す総合的な塗りの技法です。
茶盆、器物など格調高く、繊細かつ趣に富んだ作品が県内外から高い評価を得ています。
  4.山中漆器
  山中漆器は安土桃山時代の天正年間(西暦1573-1592)に、越前の国から山伝いに、加賀市山中温泉の上流約20kmの真砂という集落に諸国山林伐採許可状を持った木地師の集団が移住したことに始まります。
その後、山中温泉の湯治客への土産物として造られるとともに、江戸中頃からは会津、京都、金沢から塗りや蒔絵の技術を導入して木地とともに茶道具などの塗り物の産地として発展をしてきました。(山中漆器資料)
  5.越前漆器
  越前漆器の起こりは、約1500年の昔にさかのぼるといわれています。
古墳時代の末期にあたる6世紀。第26代継体天皇がまだ皇子のころ、こわれた冠の修理を片山集落(現在の福井県鯖江市片山町)の塗師に命じられました。
塗師は、冠を漆で修理するとともに黒塗りの椀を献上したところ、皇子はその見事な出来ばえにいたく感動し、片山集落で漆器づくりを行うよう奨励しました。
これが今日の越前漆器の始まりと伝えられています。(越前漆器資料)
  6.飛騨春慶
  飛騨春慶のはじまりは、およそ四百年前の慶長年間に、高山城下で社寺の造営に当たった名工高橋喜左衛門が、たまたま打ち割った木目の美しさに心打たれ、これを蛤盆に作り、第二代高山城主金森可重(ありしげ)の子、重近(金森宗和)に献上し、御用塗師成田三右衛門に透き漆で塗り上げさせたところ、その色目が加藤景正の名陶「飛春慶の茶入」に似通っていたところから「春慶塗」と名付けられ、将軍家に献上されたと伝えられています。(高山行政情報資料)
  7.香川漆器
  藩政時代、殿さまの奨励と支援を受けた工業や文化は、今日まで永く受け継がれています。香川県では漆器の伝統技法などがその類です。香川の漆器は歴史の古さよりも、質も量も旧藩の保護と理解のもとに発展し、幾多の名工を生み、巨匠をだしています。
そして、昭和24年には商工省から重要漆工集団地として指定され、また51年2月には、漆器のうち「蒟醤、存清、彫漆、後藤塗、象谷塗」が四国では初めて国の伝統的工芸品の指定を受けました。古来、香川は芸術的な環境と天分に恵まれていたとはいえ、漆器をこれほどまでに開花させたのはやはり茶や花を愛した殿さまのおかげでしょう。寛永15年(1638)水戸の国から松平頼重公が高松へ入封、漆器や彫刻をすすめ、名工を育てたが注目されるのは玉楮象谷であります。
玉楮象谷は、文化3年(1806)、高松市の鞘塗師、藤川理右衛門の長男として生まれ、20歳で京都へ遊学しました。京都では塗師、彫刻師、絵師らと交友を深め、豪放磊落、多彩な才気にみちた象谷翁は、明時代の存清、蒟醤、紅花緑葉など中国伝来の漆塗技法の新しい分野を開拓しました。象谷翁は、明治2年64歳で亡くなるまで3代の藩主に仕え、今日の漆器の始祖といわれるすばらしい作品を数多く残しています。
また、高松藩士、後藤太平は、渋味のある漆塗柄を研究し、下絵についた塵の文様にヒントを得て、のちに"後藤塗"といわれる塗手法を創案しました。これらの大先輩によって、開発完成された香川の漆器の伝統を継承し、さらに発展の功労者としては、重要無形文化財蒟醤技術保持者になった故磯井如真や故音丸耕堂(重要無形文化財彫漆技術保持者)の活躍など、多くの巨匠を育ててきました。(香川県漆器工業協同組合資料)
蒟醤(きんま)
「蒟醤」の起源はタイ、ミャンマーにあり、室町中期にわが国に伝来されました。藍胎(竹ひごで編んだ素地)や指物、挽物、刳物を素地に布着せ、堅地をつけ、その上に漆を塗り重ねて乾燥後、ケン(特殊な彫刻刀の一種)で模様を彫ります。凹部に色漆を埋め込み、研ぎ炭で平らに研ぐことにより余分な色漆を除き、意図した模様を表現します。
彫りには線彫りや点彫りなどがあり、漆の面を彫って充填する点では「沈金」の技法と似ていますが、沈金が文様を全て彫った後に彫りくぼみに緊迫や金粉を真綿で押し込むのに対し、蒟醤は埋める色漆ごとに彫り、充填させる作業を繰り返します。全ての充填が終わると表面を平らに研ぎ出すという香川独自の技法です。
香川漆器の先駆者 玉楮象谷が完成させたキンマ技法は、弟の藤川黒斎が受け継ぎ、香川のキンマ漆器の技として、確立しました。昭和30年に故 磯井如真が蒟醤の技術保持者として人間国宝に認定されて以来、香川から磯井正美、太田儔、そして新たに山下義人が認定され、4人の人間国宝を排出しています。現在、蒟醤の技法を生かした作品は日展や伝統工芸展などに数多く出品され、美と技を競っています。
存清(ぞんせい)
存清漆器は室町中期に中国から伝わりました。当時は船来の珍品として一部の貴族の間で愛好されていましたが、江戸天保年間、玉楮象谷が中国の古い技法を研究し、日本的な存清漆器を作り出したのです。象谷は中国の名工「存清」の名をそのまま名称にしました。存清の技法は、黒地、赤地、黄地などの上面に色漆で絵紋様を描き、その図の輪郭を毛彫りしたり、金泥で隈取りするものがあります。明治の初期、玉楮象谷の実弟、藤川国斎の手で産業化され、明治25年頃から末期にかけてヨーロッパへも輸出され、香川は漆芸王国として全国に知られるようになりました。
彫漆(ちょうしつ)
彫漆は中国の堆朱、堆黒、紅花緑葉など厚く塗り重ねた漆の層を彫刻する技法として日本に伝わりました。
漆塗の中で最も漆の特徴が生かされた技法です。彫漆は何層にも塗り重ねた色漆の層を考慮しながら精密に計算された刀(ケン)の動きによって絵模様を彫り浮かべていきます。立体感があり、繊細な名品が数多く製作されています。明治、大正、昭和へと受け継がれた漆芸界から彫漆の重要無形文化財技術保持者(人間国宝)故 音丸耕堂を排出し、今日も多くの名匠がこの世界で活躍しています。
後藤塗(ごとうぬり)
後藤塗は江戸時代末期、高松藩士後藤健太郎の次男として生まれた、後藤太平が発案した特異な塗りで、その偉業をたたえて「後藤塗」と呼ばれるようになりました。
太平は父の影響で官休の茶をたしなみ、中国風の書画や骨董を集め、藩の文人達と親交がありました。そうした中で自らも手提げ重や酒盆を朱の漆を使って製作したのが後藤塗の発祥です。
塗りの堅牢さと優雅さから広く一般に普及し、大正初期の頃からは盆や茶托、椀などの日用品をはじめ飾り棚や座卓などにも用いられるようになりました。
歳月を経るにつれて朱の色が味わいを深める後藤塗りの魅力はやがて全国に知られるようになり、香川を代表する漆塗りの特産品となっていきました。
象谷塗(ぞうこくぬり)
下地を施した器に漆を数回塗り重ね、その上に川辺や池に群生している真菰の稈の中に入っている粉末を漆の上に撒き、さらに透漆を摺り込んで仕上げます。長年使っているうちに象谷塗独特の陰影が出て、渋い味わいを増していきます。存清や蒟醤とともに香川に伝わる伝統的な塗技法の一つで、創始者 玉楮象谷の名をとり「象谷塗」と呼ばれています。丸盆や茶托など多くの日用品がつくられていますが、最近ではモダンでシンプルな家具やテーブルウェアにも素朴な象谷塗の技法が表現されています。象谷塗は堅牢な民芸調の漆器で、一見乱雑にみえる模様と菰打ちした淡い色調が独特の陰影を感じさせてくれます。また、使うほどに雅味を深める香川独特の漆塗り技法として、茶托や丸盆などさまざまな漆器が作られています。昭和51年には蒟醤や存清、彫漆、後藤塗とともに伝統的工芸品に指定されています。
  8.紀州漆器
  紀州漆器(黒江塗)は、和歌山県海南市の北西部「黒江地区」を中心に生産されています。
会津塗(福島県)山中塗・輪島塗(石川県)などと共に全国三大産地の一つです。
紀州漆器の歴史としては、室町時代紀州木地師によって渋地椀が作られたのが始まりだといわれています。これに加えて、現在の那賀郡岩出町にある根来寺で、僧侶達が寺用の膳・椀・盆・厨子などの什器を自ら作ったのも紀州漆器の起源の一つといえるものです。
根来寺に始まったこれら一連の塗物が、即ち「根来塗」といわれるものです。
黒漆で下塗りをし、その上に朱塗を塗ったところ、未熟練の僧侶の手によったものであるため、使用中自然に表面の朱塗りが磨滅して下塗りの黒漆がところどころ露出しました。それがかえって趣あるものとして喜ばれたものです。
その後、秀吉が根来を攻めた際、難を逃れた僧が、その技術・技法をもって海南市で漆工に従事したことから広まり、徳川中期頃は、紀州藩の保護のもとに相当盛大なものとなりました。
文政九年(1826)小川屋長兵衛なる工人が堅地板物の製作に成功した、安政時代には蒔絵による加飾がなされるようになりました。このようにして発達してきた紀州漆器も明治維新の廃藩置県により紀州藩の保護を失い衰退するかに見えましたが、明治3年本格的な貿易を開始したことにより次第に回復し、明治12年他県産の沈金彫の技術を導入、また明治31年には京都より蒔絵師を招いて蒔絵の改良を図りました。
昭和にはいり、天道塗、錦光塗、シルク塗などの変り塗が考案され、紀州漆器の特長を一段と発揮しました。
昭和24年重要漆工業団地として国より指定をうけ、さらに昭和53年2月通商産業省より「伝統工芸品」として「紀州漆器」が指定されました。(紀州漆器協同組合資料)
  9.村上堆朱
  村上は古い城下町です。
村上地方の漆枝は今から600年前、京都から寺院建築に来た漆工が始めたと伝えられています。
その後、慶長(約380年前)以来、歴代藩主は、これを奨励し、寛文年間(約320年前)には漆奉行が設置され、漆樹栽培が一段と活発になりました。
亨保年間(約260年前)には現在の木彫堆朱・堆黒が生産され、文政の頃には江戸詰の村上藩士、頓宮次郎兵衛は堆朱彫の名工、東谷について彫刻を学び、次いで沢村吉四郎にも学び、堆朱彫は藩内に広められて漆塗の技と共に次第に進歩発達して、名工有磯周斎が輩出しております。
周斎は本堆朱の他に存星(中国の漆芸の一技法で、わが国では四国高松市で作られている)も研究し、或は中国風の図案に写生を加味して品位の向上を図り、或は鎌倉彫の彫法を取捨して改良するなど技術の進歩をなして、今日の村上木彫堆朱の基礎を築きました。
その後、村上堆朱業界に幾多の変遷はありましたが落ちついた高雅な持味は変わることなく愛好者を満足させ乍ら、時代の感覚にマッチした製品の製作に日夜励んでおります。(村上堆朱事業協同組合)
  10.若狭塗
  寛永11年(1634年)若狭の国に赴任した酒井忠勝が『若狭塗』と命名し、同時に藩を挙げて手厚く保護奨励しました。
その惚れ込みようは、酒井家秘宝の漆芸とするだけでなく、他藩への技術流失を禁止したほど。承応2年(1653年)忠勝は塗師三十郎と木地師に、およそ7ヶ月間もの長期間、江戸表で細工をさせたとか。
いわばこれは、天下に若狭塗を広めるためのデモンストレーション。
この時の三十郎への褒美は銀2枚米納五俵ですが、万治2年(1659年)には扶持米を与えられるまでになりました。
また、若狭塗は小浜藩の御用塗師「松浦三十郎」が支那漆器の一種存星をヒントに、海底の様子を意匠化して考え出したのがはじまりです。
江戸中後期にかけては若狭塗の黄金時代で、箔押し研出し技法(青貝・卵殻)、螺鈿以外にも蒔絵の技法も併用され、200種以上にも及ぶ塗手法が完成されていたと言われています。(若狭塗箸協同組合)
  11.津軽塗
  津軽塗の成立は江戸時代中期、弘前藩第四代藩主津軽信政公(1646〜1710年)の治世にさかのぼるとされる。
この時代、徳川氏による大名の国替も一段落し、政情は安定して各藩の商工業も徐々に発展していく様相を見せた。また、寛永19年(1642年)に成立した参勤交代の制度と、それに伴う街道整備により流通が発達し、上方(京都・大阪)や江戸の文物が地方に伝播していくようになった結果、各藩がそれぞれの地域の産業を保護奨励するようになり、この時期日本全国で多くの工芸品が誕生し、普及・発達し始めた。
信政公も津軽の産業を育成するため、全国から多くの職人・技術者を弘前に招いた。
延宝4年(1676年)頃には、既に弘前城内の一角に、塗師の作業場があったことが、当時の図面により明らかにされている。
また、 明治6年(1873年)に開催された、ウィーン万国博覧会には、青森県が「津軽塗」の名前で漆器を出展し、賞を受けている。「津軽塗」という名前が一般的となるのは、ここからである。その後、大正時代まで津軽塗産業は大衆化を推し進め、生産量/販売額を増大することに成功する。(青森県漆器協同組合 )
  12.秀衡塗
  秀衡塗は、平泉町に栄華を極め、中尊寺金色堂をはじめとする仏教美術をこの地にもたらした奥州藤原氏にその起源を発しています。
現在では発掘により工房が存在したことも確認されていますが、藤原氏滅亡以後数百年の歴史は未だ定かではありません。
江戸時代後期からは平泉町隣村の衣川村で漆器が盛んに製造されていましたが、昭和30年の衣川ダム建設によって全国でも異例の産地分裂となり、現在に至っています。
秀衡塗は、菱形の金箔を使い漆絵でデザイン化した草花を描いてある秀衡文様が特徴で、素朴ながら華麗な味わいを見せます。
堅牢な本堅地下地を用い、加飾は当時に伝わる時代椀である「秀衡椀」を模範に有職菱文様が描かれます。
この地方は、漆と金の特産の地でもあったことから、金箔を用いた造りが受け継がれ、朱と黒と金の基調の中に春秋草花紋が配された、光沢を抑えた仕上が漆本来の美しい艶を味わうことができ、使う人の心をなごませてくれます。(東北経済産業局ホームページ)
  13.川連漆器
  鎌倉時代(1193年)、源頼朝の家人で稲庭城主の小野寺重道の弟、道矩(みちのり)公が古四王野尻(現在の川連町大舘地区)に館を築き、家臣に命じて刀の鞘(さや)、弓、鎧などの武具に漆を塗らせたのが始まりとされています。
本格的に漆器産業が始まったのは17世紀中頃、元和(1615年)から元禄にかけてであり、川連村を中心に約26戸が椀師稼業を営んだとの記録が残っています。
文化12年(1815年)、藩の許可を得て朱塗りの漆器をつくり販路を他国にひらき、江戸時代後期には藩の保護政策のもとに、椀、膳、重箱など幅広い漆器がつくられるようになり、沈金、蒔絵などの飾りが加わって、産業基盤をさらに大きく築きあげていきました。
明治には新しい技術開発がおこなわれ、昭和51年には国の伝統的工芸品に、平成8年には県の伝統的工芸品にも指定され、平成10年、平成12年の全国漆器展では内閣総理大臣賞を受賞いたしました。
堅牢さを誇る実用的な生活用品として庶民生活に密着し、今日、川連漆器は地域の主要産業となっています。(秋田漆器工業協同組合)
  14.大館曲げわっぱ
  大館曲げわっぱは、木こりが杉柾で曲物の器を作ったことに始まったとされています。
藩政時代に大館城主佐竹西家が領内の豊富な秋田杉に着目し、武士の内職として推奨しました。
農民には年貢米の供出代替として、山から城下まで原木を運搬させたといいます。
製品は酒田・新潟・関東などへ運ばれました。江戸時代末期から近代にかけて職人たちが技法を受け継いできましたが、プラスチックの出廻り等により他産業への転向が相次ぎました。
現在の本物志向の風潮に相まって、大館の曲げわっぱは、多くの人に愛されています。(大館曲げわっぱ協同組合)
  15.金沢漆器
  金沢漆器は3代藩主 前田利常(としつね)が京都から招いた蒔絵の名工・五十嵐道甫が技術を伝えたのが始まりで、前田家によって育て上げられたいわば貴族的な工芸でした。
金沢漆器には蒔絵、卵殻、平文など漆器の加飾技術がすべて伝えられており現在においても量産というより、むしろ一品制作の美術工芸品を主とした茶道具、調度品、高級家具などが制作されています。
また、鞘塗りとして知られる変わり塗りも多彩であり、紗のめ塗、置霜塗などは、技術の高度さなど金沢漆器特有のものとして評価を得ています。(金沢市観光交流課)
  16.木曽漆器
  木曽漆器の本場となっている旧楢川村(塩尻市)は木曽谷を貫く中山道(現・国道19号線)の北の入口に位置し、海抜およそ900メートルの高地にあります。
このため夏は涼しく冬は厳しく寒いという独特な気候は漆を塗る作業環境に良く、自然豊かな大森林は良材を育み、交通の面でも主要道路が通っているという風土と要路の二つの好環境に恵まれて400有余年という時間を費やして私たち先人が試行錯誤を経て輝かしい成果を残しそれを継承して今日に至っております。(木曽漆器協同組合)
  17.別府竹細工
  別府竹細工の起源について、「日本書紀」の記述によると、人皇12代景行天皇が九州熊そ征伐の帰りに別府に立ち寄った際、お供の膳伴(台所方)が、良質のシノダケが多いことを発見し、メゴ(茶碗籠)をつくったことがはじまりとされています。
本格的に工芸品として扱われるようになったのは室町時代からだとされ、行商用の籠が販売のために生産されるようになり、竹細工の市場が整備されていきました。
江戸時代に入ると、日本一の温泉地別府の名が全国に広がり、各地から別府へ湯治客が集まるようになりました。
そして湯治客が滞在中に使用する飯籠、米あげ笊(ざる)といった竹製の生活用品が売られるようになりました。
竹製品は湯治客の土産品としても好評で、需要の増加と共に竹細工市場は拡大し、別府に地場産業として定着していきました。
明治に入り、別府竹細工は土産品の域を越え、高度な技術を集約した工芸品へと発展していきました。
明治35年には竹工芸近代化のための技術者育成を目的とした、別府工業徒弟学校(現 大分県立大分工業高校の前身)が別府、浜脇両町により創立されました。
徒弟学校には、将来性を見込んで全国から多くの竹職人が集まり、今日の優れた製造技術の蓄積、発展の礎を築いていきました。
昭和13年には大分県工業試験場別府工芸指導所(現 大分県竹工芸・訓練支援センターの前身)が大分県により設立されました。
そして今日においても、日本で唯一の竹工芸の専門訓練校として、多くの技術者を輩出し続けています。 (別府市竹細工伝統産業会館)
  18.京漆器
  奈良時代、唐から伝えられた漆技を基に、日本独自の美的感覚で漆工技術を確立しました。
この技術は、平安建都とともに京都に受け継がれ、蒔絵(まきえ)の技法が発達しました。
以来、京漆器は、各時代の風潮を反映し、室町時代には、茶の湯と結びついたわび、さびの内面的なあじわい深さを感じさせる「東山時代物」が登場しました。
安土桃山時代には、新興武士階級の好みを代表するような華麗な「高台寺蒔絵」、町人文化の栄えた江戸時代には、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)、尾形光琳(おがたこうりん)などが豪華・緻密な意匠様式を残してきました。
特に、工芸の各分野において、卓越した才能を発揮した本阿弥光悦は、金蒔絵に金銀貝、青貝などを配した光悦蒔絵と呼ばれる斬新な感覚を表現し、元禄期に現れた尾形光琳にも大きな影響を与えました。
光琳派の技法は、琳派(りんぱ)と呼ばれ、現代にまで受け継がれ、京漆器はもちろん諸工芸、インテリア、建築など各種デザインに影響を与えています。
京塗(きょうぬり)、京蒔絵とも呼ばれる京漆器は、最高の素材の選択、お膳や重箱の角などのくくり錆(さび)という特別 な手数をかけた工程や独自の装飾技法の確実な踏襲、そして洗練された美意識において、特に高級品分野では他産地の追随を許しません。
優雅なデザインと器物の強さ堅さ、平面の美しさ、かどの切立の美しさ、その繊細な仕上がりが特徴です。(京漆器工芸協同組合資料)
  19.奈良漆器
  わが国を代表する漆器工芸は、仏教伝来を契機とした天平文化とともに花開き、漆で絵を描いたもの、螺鈿、金銀平脱、平文など多種多様な技法を自由に駆使して、目の覚めるような美しい器物を残しています。
おそらく、直接器物を輸入すると同時に、工人を中国から招いて製作にあたらせ、日本人に伝習させたのでしょう。
そのころの数多くの作品が、正倉院に収められているので、奈良は、日本の漆器の発祥の地といわれています。
中世になって、塗師・漆屋座が登場します。
南都に住んで、社寺に所属し、建造物の塗師として活躍しながら、器物としての漆器も制作していました。
また、茶の湯の発展とともに、茶道具関係の塗師に名人上手が現れ、江戸時代には、武具の塗師を職業とする人もいました。  その後、明治に入って奈良博覧会会社が設立され、正倉院宝物や社寺の什器がはじめて公開された明治8年の第1回博覧会の開催によって奈良の漆工達は大いに啓発され、これらの模写事業を興して、工芸品としての奈良漆器の復興がはかられました。
なかでも、螺鈿塗の技法は、奈良の独壇場です。(奈良市観光経済部資料)
  20.琉球漆器
  沖縄は昔から中国漆器の技法を取り入れ、もっぱらその習得につとめてきましたが、特に1609年(慶長14年)以来薩摩に支配されるようになってからは、施政上の立場から当時の琉球王府が直営としての貝摺奉行所(漆器製作所)を拡大強化し、漆器の生産に力を入れました。
生産品は中国風に出来ており、将軍家への献上器、諸大名への贈答品、あるいは民間交易品として珍重されるようになりました。
又こうした漆器は次第に貴族階級の生活の中に取り入れられ、宮廷舞踊や冊封使のための重要な什器としての役割も持つようになりました。
漆器の最も古い記録によりますと、1427年(応永34年)明の皇帝宣宗が琉球から漆を購入させたとありますが、沖縄ではこの頃から既に漆の技法があったようです。
その後 1879年(明治13年)廃藩まで幾度か工匠を中国に派遣、「螺鈿」「沈金」「箔絵」その他さまざまな技法を学んでいます。とりわけ1715年(正徳5年)比嘉乗昌が中国の素朴な加飾法から高肉の華麗な加飾法を編み出し、これが今日琉球漆器を代表する「堆錦」であります。
ロクロは1629年(寛永6年)に薩摩大隈の人から伝えられ、これが塗師となって住みついた若狭村(後の那覇市若狭)が廃藩置県後琉球漆器生産の中心地となりました。(那覇市伝統工芸館)
  21.樺細工
  樺細工の産地旧角館町は、秋田県の中央、仙北平野の北部に位置し、清流玉川と桧木内川に挟まれた城下町としての藩政時代はもとより明治以降においても政治経済の中心地であった。
角館の樺細工は、天明年間(1771〜1788年)俸禄だけではとても生きられなかった下級武士の手内職として始められた。
天明の頃は、大凶作、飢鐘の時代でもあり、藩を挙げて殖産興業に励む経済力もなく、元手のかからない自生する近在の山桜の樹皮を剥いで細々とつくられていた時代であった。
角館の樺細工は、こうした下級武士の困窮に育まれたと言っても過言ではない。
その後、紆余曲折の時を経て現在従事者約三百名、年間生産額十数億円、角館の基幹産業に成長してきた。(秋田県漆器協同組合)
  22.浄法寺塗
  浄法寺塗は中世に岩手県北部を支配していた豪族「浄法寺氏」の名前に由来しており、地名にもなりました。
土地の伝承によれば、神亀5年(728年)行基がこの地に天台寺を建立した時中央から僧侶が派遣され、自家用の什器を作るために漆工技術も伝えられました。 藩制時代には南部藩の重要な産物として天台寺周辺から旧安代町付近まで産地を拡大し、「御山御器」の名前で知られ、現在の産地の基礎となっています。
製品は、日常使用される汁椀・飯椀・片口のほか時代椀には、加飾の入ったものもあります。その殆どが、無地の本朱・黒・溜色による光沢を抑えた単色の仕上げとなっており、最大の国産漆生産地である良質の原材料を用いた飽きのこない柔らかな艶の質感に仕上げたのが大きな特徴です。
製品には、菱形の金箔を使い漆絵でデザイン化した草花を描いてあります。(岩手漆器工業協同組合)
  23.津軽塗
  津軽塗の成立は江戸時代中期、弘前藩第四代藩主津軽信政公(1646〜1710年)の治世にさかのぼるとされる。この時代、徳川氏による大名の国替も一段落し、政情は安定して各藩の商工業も徐々に発展していく様相を見せた。また、寛永19年(1642年)に成立した参勤交代の制度と、それに伴う街道整備により流通が発達し、上方(京都・大阪)や江戸の文物が地方に伝播していくようになった結果、各藩がそれぞれの地域の産業を保護奨励するようになり、この時期日本全国で多くの工芸品が誕生し、普及・発達し始めた。
信政公も津軽の産業を育成するため、全国から多くの職人・技術者を弘前に招いた。延宝4年(1676年)頃には、既に弘前城内の一角に、塗師の作業場があったことが、当時の図面により明らかにされている。
なお、信政公が諸国から招いた職人の中に、若狭国(現在の福井県)の塗師、池田源兵衛という人物がいた。源兵衛は貞享2年(1685年)、藩命により江戸へ上り、塗師の青海太郎左衛門に入門した。源兵衛は翌年、江戸で客死したが、父の遺志を継いだ源太郎は、蒔絵師山野井の門で修業をする。その後元禄10年(1697年)、亡父と同じように青海太郎左衛門に入門し修業を積んだ。やがて源太郎は青海一門の一子相伝の秘事「青海波塗」(せいかいはぬり)を伝授される。太郎左衛門の死後、帰藩した源太郎は享保12年(1727年)、師の姓と父の名を継いで、青海源兵衛と名乗った。この間もこれ以後も、青海源兵衛は今まで学んだ技術に独自の創意を加え、津軽の地で新たな漆器を生み出していくこととなる。
唐塗(からぬり)
津軽塗の代表格であり、現在最も多く生産されている。唐塗独特の複雑な斑点模様は、何度も塗っては乾かし、そして研ぐという作業を繰り返し、全部で四十八の工程から生み出される。完成までには最低でも一ヶ月半〜二ヶ月を要する。 津軽塗の技法において唐塗の歴史は長く、正徳五年(一七一五年)には既に「唐塗之御文箱〜」と書かれた記録が見受けられる。「唐塗」という名は、もともと中国からの輸入品を唐物と呼んでいたことに由来する。「優れたもの」、「珍しいもの」いう意味で、当時の社会風潮を反映して「唐塗」と命名されたものと思われる。 唐塗の文様の基礎を作る道具を仕掛べらと呼び、これによって凹凸が生まれる。仕掛べらによる絞漆の凸模様を基本として塗膜面に現われる模様を「唐模様」といい、唐模様を主体にして仕上げられた漆器類を「唐塗の塗物」や単に「唐塗」と呼んでいる。
七々子塗(ななこぬり)
ななこ塗は研ぎ出し変わり塗りの技法の一種で、その特徴は、模様をつけるために菜の花の種を蒔き付けることである。菜種による小さな輪紋の集まりが魚の卵を連想させる模様から、「七子」「魚子」「菜々子」「斜子」などの文字が当てられている。
津軽塗におけるななこ塗の歴史は定かではないが、津軽塗独自の塗とは思われない。例えば延宝六年(一六七八)の加賀藩の工芸標本『百工比照』の中に、「ななこ」の名称が見られる。また小浜藩の藩医が延宝年間に記した書物にも「魚子塗」の言葉が見える。こうしたことから、おそらく藩政時代に他藩との交易ルートを通じて伝播したものと思われる。(青森県漆器協同組合連合会)
  24.鎌倉彫
  陰影のある彫りの味わい、深みのある漆の色調、そして、日本古来の素材である木の温もり。これらが見事に調和した伝統工芸品「鎌倉彫」。仏具として作られ始めて以来、800年の時を越えて受け継がれ、気品と風格はそのままに暮らしに溶け込み広く愛されるようになりました、伝統を守りながら、つねに現代に息づく物作りを目指す鎌倉彫は、誇るべき工芸品としていまも進化を続けています。 (昭和54年、経済産業省指定伝統的工芸品)(伝統鎌倉彫事業協同組合)
  25.鳴子漆器
  今から350年以上も前の寛永年間(1624年〜1643年)の創始と伝えられ、岩出山藩3代城主伊達弾正敏親が、塗師の田村卯兵衛と蒔絵師の菊田三蔵を京都に派遣し、修行させ、鳴子漆器の振興を図ったとされています。
安永2年(1773年)の「鳴子村風土記書出」において塗物、箸、楊枝などの産物の記載があり、鳴子の主要産物だったことがわかります。文化2年(1805年)の「漆出高記」には、漆の採取が行われていたことが、記録されています。
鳴子漆器の特徴は、挽物木地の塗立て技術にあります。塗りは木目を生かした木地呂塗りやふき漆仕上げ、また、独特の墨流しの技法の竜文塗があり、しっとりした美しさがあります。さらに、中塗りを施した後、蒔絵による加飾をする場合もあります。
鳴子漆器は日用生活用品として使い良さ、丈夫さに人気があります。 (鳴子漆器協同組合)
  26.八雲塗
  明治時代初期、松江の塗師坂田平一が、中国の漆器にヒントを得て創案し、出雲の古歌「八雲立つ」より八雲塗と命名された。
塗りこめられた素地に、様々な色調の色漆、青貝金銀粉を用いて文様を描きあげた後、その上に順良な天然透漆を塗り重ね、伝統技法により研ぎ出して仕上げる。
年月を経るごとにこの透漆が透明度を増し、描かれた文様が色鮮やかに浮かび上がるのが、他の産地にはない、八雲塗りの最大の特徴である。(島根県八雲塗振興会資料)
  27.新潟漆器
  江戸時代初期、秋田県能代の春慶塗(しゅんけいぬり)の伝播が始まりとされる。
江戸から明治時代にかけ、北前船の寄港地として物資や文化の集散地であった新潟には、様々な地方から塗りの技法がもたらされ、
独自に発展。いつしか時の流れとともに、他産地では途絶えてしまった技術と手間を要する多彩な塗りが、廃れることなく受け継がれ、
現代では変塗(かわりぬり)の宝庫と言われる。特に竹塗は、漆を塗り重ねて竹の肌合いや風情を表現する、他産地では見られない
非常に珍しい技法。かつて旦那衆が茶席などで粋を競いあったのであろう、日本の遊び心が育んだ驚きの技がここにある。(新潟漆器協同組合)
  28.大内塗
  大内塗は約600年前の大内弘世のころ、都にあこがれていた大内氏が京都から漆塗りの職人を山口に呼び寄せて漆器を盛んに作らせるようになり、
産地として形成されていったのが始まりのようです。漆器は朝鮮や中国への重要な貿易品となっていったので、庶民の日用雑器だけでなく、
高品質で華やかなものも作られるようになったのでしょう。室町時代の大内椀は今も残っており(県指定有形文化財 重要美術品、毛利博物館蔵)、
殿様用だったのか非常に丁寧に作られ、今見てもモダンです。ただし、当時、大内塗という名称はなく、その名称は明治時代から言われるようになったものです。(山口県伝統的工芸品資料)
  29.喜多方漆器
  江戸時代初期、喜多方や若松を中心に会津の漆器産業は活気に溢れていました。それは、自然林が豊富で、藩奨励の漆植林事業から採される良質な漆を背景に、熟練職人たちが腕を競い合うほどでした。会津盆地特有の文化と融合しながら、日本を代表する漆器産地として今日まで継承されてきましたが、近年では生活様式の変化に伴い漆器に代わる生活用品が普及するようになりました。つまり、プラスチック製品が増えたため漆器を使う家庭が減ってしまったのです。
ですが、プラスチックの原料の一部が、人体に影響を及ぼす可能性があると解った時に、脚光を浴びた食器が漆器だったのです。
喜多方市のうるしを使用していますが、採取したうるしの品質は県のハイテクプラザの品質検査でAクラスと高い評価が付いているので、安心してお使いになれます。
その最高級のうるしを塗って出来たのが、この喜多方漆器なのです。(会津喜多方漆器商工協同組合)
  30.小田原漆器
  小田原漆器の起源は室町時代中期に箱根山系の豊富な木材を使用し、木地挽きされた器物に漆を塗ったのが始まりとされています。
その後、北条早雲より第3代、北条氏康が小田原漆器を発展させるため塗師を城下に招き彩漆塗りの技法も用いるようになりました。江戸時代には盆、椀などの日用品の他に武具類にも漆を塗るようになり、江戸時代中期には継続的に実用漆器として江戸へ出荷するなど、箱根関所を要する東海道屈指の城下町、宿場町として漆器つくりの技術が確立されました。
小田原漆器はケヤキ材などが持つ自然の木目の美しさを充分生かした摺り漆塗りや木地呂塗りが主体の手作り漆器であります。堅牢で素朴な手工芸品として御愛用戴きたいと存じます。
小田原漆器は昭和59年5月、通商産業大臣より「伝統工芸品」として指定を受けました。(小田原漆器協同組合)
  31.金沢箔の歴史
  金箔自体は、白鳳・天平の文化を頂点とする古代国家の繁栄が多量の金で飾られていたことから、かなり以前より作られていたと推測されています。
古くは東大寺や唐招提寺など飛鳥・天平文化を彩る寺院建築や仏像彫刻に、更には平安時代の中尊寺金色堂や室町前期の北山文化を代表する金閣寺、桃山時代の屏風やふすま絵等、金箔は時代の中で、それぞれの場面で芸術性を高めるための重要な役割を果たしてきました。 そして、金沢においては約400年前の文禄2年、前田利家が豊臣秀吉の朝鮮の役の陣中より、国元に金・銀箔の製造を命じたのが始まりとされております。
元禄9年、幕府は江戸に箔座を設け、全国の箔の生産・販売を統制し、箔座が廃止された後には金座にその権限を移し、金・銀箔の生産は江戸、京都の箔屋以外には許されなくなりました。
文化5年、焼失した金沢城二の丸御殿を再興するために、多量の金箔が必要となり、京都より熟練した箔打ち職人が呼び寄せられました。これを契機に金沢の町人の間に製箔業を確立しようという動きがおこります。
その後いろいろな時代の流はありましたが、最終的には江戸箔が途絶えたことで、金沢箔の地位が高まりました。
そして、明治・大正・昭和・平成と、箔の製造に適した気候、良い水質に恵まれた金沢の地で今日まで「金沢箔」の製造が受け継がれております。
金箔は、国から指定されている数少ない「伝統的工芸材料」です。
伝統工芸の指定は、最終商品としての「工芸品」がほとんどで、材料として指定されているのは、金箔の他に、形紙や挽物木地など3〜4種類のわずかな産地に限られます。
故に、金箔は材料として商品を引き立たせる役割に徹し、付加価値を高める用途に用いられます。
丹念に仕込まれた手漉きの和紙に挟まれ、幾度の工程を箔打ち職人によって打ち上げられた金箔は、その独特の風合いや神秘的な輝きにおいて、様々な付加価値向上の「材料」として使われております。