御好評頂いた春季展の続編として、蔦屋重三郎が出版した喜多川歌麿・北尾政演(山東京伝)・葛飾北斎の絵本や京伝の洒落本などを中心に約五十点を展示しました。春季展とは展示作品を大幅に入れ替えて、鳥居清長・菊川英山・溪斎英泉・歌川国貞などの版画を加え、江戸時代後期の浮世絵美人画の変遷にも焦点を当ててみました。以下、主に蔦屋関連の展示作品を紹介します。
【清長の時代】 天明二年から四年(1782~84)にかけて、版元の西村屋与八は鳥居清長を起用して『雛形若菜の初模様』と題するシリーズを出版します。十種類が現存しています。これは、磯田湖龍斎の同じ題のシリーズを受け継いだもので、その版元も西村でしたが、初めの頃は、蔦屋重三郎も出版に関わっていました。今回の清長によるシリーズには蔦屋は関わっていません。
【清長と政演】 蔦屋は、清長の「雛形若菜の初模様」に関係していないどころか、それに対抗するかのように、天明四年(1784)に、北尾政演(山東京伝)が描いた『新美人合自筆鏡』を出版します。これは倍大判七枚を帖仕立てにしたもので、各枚には二人の花魁と彼らに従う禿などが描かれています。描かれた十四名の花魁の内五名は、清長の『雛形若菜の初模様』にも描かれています。ここでは二人が描いた丁子屋丁山を取り上げます。
清長が描いた丁子屋の一階の様子です。右奥の暖簾が入り口で、客は二階へ上がります。階段の向こうに張り店があり、壁には鳳凰が描かれています。右手前が炊事場。左の神棚の前は主人の場所ですが、あるいは賓客をもてなす場面でしょうか。
清長の華麗さは欠けますが、政演には師の北尾重政譲りの重厚さがあり、存在感あります。異国趣味の意匠、机上の西洋夫人のガラス絵などこまごまとした細部が存在感を強めます。開かれた法帖には「天明癸卯(三年)」の年号があります。
【蔦屋が出版した清長】 鳥居清長の浮世絵は西村屋ばかりでなく、他の版元も出版していて、蔦屋もいくつか出しています。 〈雪月花東風流〉 6,7.8 鳥居清長 雪月花東風流 版元・蔦屋重三郎
向岡は文京区弥生あたり。背後に見えるのは不忍池。東京大学本郷キャンパスに水戸斉昭の「向岡記」石碑が現存し、それには四季の眺めとして、「はな(花)ほととぎす(杜鵑)もみぢ(紅葉)ゆきふる(雪降)ごろ」とあります。
障子の外側の藁束に、狐人形がふたつ刺されています。狐人形は王子稲荷参詣の土産として有名で、近くの道端や民家で売られていました。民家の縁側に火鉢が置かれていて、簡易な休憩所となっていたようです。
8 三囲
提灯に書かれている「中田屋」とは、三囲神社の近くにあった葛西太郎の料亭の屋号です。鯉料理で有名でした。『江戸名所図会』によると、店は隅田の堤の傍で、堤の川側は階段状になっていますが、店側はスロープ状なので、この絵は竹屋の渡し場から堤を上る場面と思われます。
三枚続きの作品ですが、残念ながら左端の一枚が欠けています。それには洗濯する女が描かれています。中央に伸子張りする女、そして、右に髪を繕ったり、くつろいだりする女たち。生活臭の希薄な優雅な光景。背景には隅田川。対岸の描写は詳しく、堅川に架かる一之橋(一ツ目橋)が見えています。清長の美人画は、このように江戸の具体的な場所を背景にしたものが多くあります。
蔦屋が出版した歌麿の「琴棋書画図」三枚続きの左一枚です。人物表現はよく似ていて、歌麿も清長の影響下にあったことが分かります。
【画本虫撰】
少々表紙に汚れ、虫食いがありますが、保存状態が良く、題箋も完全な状態で残っています。ただし、雲英刷りの模様は他の初刻本のものとは違っているようです。また、初摺本とされるものでは、下巻第六図のユキノシタの茎の輪郭線があるのに対して、本館のものにはなく、しかも輪郭線のない本では空刷であらわされた花の一つに輪郭線があるのに対して、この本にはありません。
〈宿屋飯盛〉 狂歌を選び序文を書いたのは宿屋飯盛です。「宿屋飯盛」は狂歌名で、旅籠屋を営んでいたのに因みます。本名は又吉直樹、間違いました、石川五郎兵衛。国文学者としては石川雅望の名で知られています。その序文に、「鯉ひさく庵さき(庵﨑)のほとり隅田のつつみに氊うち敷きて」、虫をテーマに行った狂歌の会での作品とあります。この場所は葛西太郎中田屋の近くと思われます。
【寛政三年のお咎め】 寛政三年(1791)三月、山東京伝と蔦屋重三郎は町奉行所に呼び出されました。その年の一月に蔦屋が出版した山東京伝の洒落本『娼妓絹籭』『仕掛文庫』『絹の裏』が、「不埒の読本」と咎められ、京伝は「手鎖(てがね・手錠のこと」五十日、蔦屋は「身上半減」という刑を言い渡されました。お咎めの対象となった三冊を綴じ合わせたものが当館にあります。それぞれの冊の表紙裏には、包紙の絵が貼られています。いずれの表紙にも「教訓読本」と銘打ち、話の舞台を、『仕懸文庫』では深川を鎌倉に、『錦の裏』では吉原から神崎に変えているのは、すでに始まっていた取締り強化への対策と考えられています。
当館には、合冊本の他に、『錦の裏』は初版本、覆刻本、初版の写本があり、『錦の裏』は人気があったようです。時刻を追って描写された遊女屋の様子を背景に、ストーリが進んでゆく構成は見事です。歌麿の「青楼十二時」シリーズは、この『錦の裏』の影響であることが指摘されています。また、松平定信の命で、山東京伝が詞を書き、鍬形蕙斎が絵を描いた「吉原十二時絵詞」が作られたことも知られています。『錦の裏』は構成ばかりでなく、巻頭の挿絵も見事です。このような何気ない日常の情景を的確に表しているのは驚きです。山東京伝(北尾政演)は戯作者としてばかりでなく、浮世絵画家としてもっと評価されるべきです。
【潮来絶句】 潮来の遊女が歌っていた小唄が、吉原の遊女の間で流行っていました。伊賀藩の江戸詰めの侍・藤堂良道がそれを聞き、五言絶句に翻訳し、それを蔦屋が出版しました。その小唄と漢詩を上に記し、下には北斎が潮来の遊女たち日常の姿を描いています。藤堂良道は後に随筆の中で、この書について回想し、お咎めをうけて絶版になったと記しています。そして、その記述から、この書が寛政年間初期に成立したものと推定できます。しかし、北斎の絵の画風は、もっと後の宗理様式と呼ばれているものです。寛政九年(1797)の「さんたら霞」には、「北斎宗理画」落款の北斎の挿絵がありますが、その様式に似ています。現在のところ、良道の随筆の記述は記憶違いとみなさざるを得ません。『潮来絶句』には、曲亭馬琴が享和二年(1802)に書いた『潮来曲後集』が合わせ綴じられたものがあり、その年が、『潮来絶句』の刊行年とされています。
【遊女の心情】 天明8年(1788)に蔦屋重三郎が出版した山東京伝作『傾城觿(けいせいけい)』には、当時、吉原で評判の二十九名の遊女が紹介されています。彼女たちの評価、性格、得意な芸、紋所などを記し、最後に彼女たちの筆跡を載せています。筆跡の内容は名作からの引用や自筆手紙の断片などですが、名作からの引用のいくつかは彼女たちの心情を代弁しているように思われます。
松葉屋若菜
丁子屋長山
大菱屋象潟
(松葉屋若菜) 心ときめきするもの よきたき物たきて ひとりふしたる (『枕草子』からの引用。伏した姿の何と清らかなこと。それに引き換え、皆様方の・・・、いと見苦し。) (丁子屋長山) わな(が)身つみのほと をそろしう候 (「わが罪のほどおそろしう」『源氏物語・若菜』) (大菱屋象潟) おとここヽろのにくい のも嬉しきほどの やぼとなり (河東節『灸すゑ』からの引用。)