日本漆工の原点は縄文時代から独自の発展をして来ましたが大陸文化の注入によって開発され熟成されたと言えます。
漆工は元来東洋独特の産業として発達して来ましたが、日本における顕著なる発達は仏教渡来(西暦538年)による唐文化の影響を強く受けて画期的な進歩を遂げたことでありましょう。
この発展の過程にはふたつの流れがあります。そのひとつは宮廷や貴族、都びとを対象とした極めて高度な芸術品を中心としたもので、もうひとつは地方産業として庶民生活に欠くことのできない器物として親しまれ幅広く発達しているものです。
宮廷や貴族を対象としたものは、いまも重要文化財、国宝として法隆寺の玉虫厨子や正倉院御物として残っておりますし、器物としては私どもが日常に使っているお椀とかお盆、箸などに残っております。
東京漆器の発祥はもちろん古く江戸時代につながりますが、京都の漆器が長い伝統と習慣やその生活につながりを持ってつちかわれてきて今日の京漆器を生み出しているように、東京には近代都市としての生活環境や様式化に順応した特長を持つ漆器が作られて来ました。
江戸漆器の中心は江戸城内の御細工場(おさいくば)から発祥して将軍家の諸調度品や武具、馬具などを作製するばかりでなく広く諸大名の求めにも応じていろいろな漆器が製作されていました。ここでも、漆はもちろん蒔絵の技術も大いに進歩し発達し完成されていました。これは五代将軍綱吉の時代で常憲院時代物と言われています。
江戸元禄頃から明治、大正、昭和と日本橋の通り筋に店舗を並べていた漆器店が三軒ありました。いづれも大店で「木屋」「きん藤」「黒江屋」と呼ばれていましたが業者仲間では通称「通り三軒」と呼んでおり都会人にも戦前までよく親しまれていた代表的な漆器店でありました。
◇木屋漆器店(日本橋室町2丁目)
創業は天正元年(1573)と伝えられています。
初代林九兵衛氏が家康の招きで江戸に出て開業し、大阪の店と二つに分かれたので姓の「林」の字を二つに分けて木屋と称したそうです。「室町に花咲く木屋の紺のれん」と江戸時代から室町一帯に木屋の分店が数多くあり、三味線木屋、文具の木屋など何々の木屋と歌のとおり木屋ののれんを誇っておりました。
漆器の木屋は江戸の末期、明治初期頃からの商売で、当初は日本橋三越本店の左隣りに開業して栄え、有名蒔絵師による高級美術漆器も多く取り扱っておりましたが戦後廃業しています。
現在三越前にある「刃物の木屋」も分店の一つで創業は、寛政4年(1792)で木屋伝統の堅い店の商標を表した歌で「代(世)の中の帆は八分に張り給え、丸木柱の中折れもなし」があります。
(引用:明治百年「東京漆器の歩み」)
◇きん藤漆器店(日本橋2丁目)
初代創業はさだかではありませんが、弘化2年(1845)頃埼玉から江戸へ出て、当時日本橋通南2丁目付近の横丁通称19文横丁に店を出しているうちに近くの太物商(反物)近江屋を譲り受けて屋号を、近江屋の近と小林藤右衛門の藤とを組合わせて「近藤」と名乗りましたが「コンドウ」と間違えられるところから、明治40年に「きん藤」と改めて漆器専門店に専念し、表通りに面して店舗を構え、神奈川・埼玉・千葉など近県にも積極的に販路を拡張して財をなしました。
大正の震災後昭和4年に近代的な鉄筋5階建のビルを新築し、1階は一般漆器、2階は有名作家の作品等高級漆器を陳列し観賞や商談のロビーとして使用していたが、昭和20年3月の空襲で罹災し21年に福井市の加藤氏に譲渡して廃業しております。(引用:明治百年「東京漆器の歩み」)
◇黒江屋漆器店(日本橋2丁目)
なぜ黒江屋なのかと言いますと、紀州黒江村出身でその産地の名を付けたものと思われます。創業者は元禄2年(1689)紀伊国名草郡黒江村、現在の和歌山県海南市より江戸日本橋本町へ出てきて漆器商を始めたと言われております。
全国に漆器の産地は沢山ありますが、紀州は特に根来塗が有名です。この根来塗のルーツと言いますと1288年高野山をおわれた僧侶達が紀の川上流、紀伊国那賀郡に移って根来寺を建てます、当時お寺と言いますと非常に文化的に高度な集団でありまして、自給自足を行ないその中で漆器も作られておりました。
当時ですから政治ですとか経済ですとかその権威もなかに入っておりまして、お寺さんでも長刀を持つと言うような僧兵と呼ばれるものも養成しておりました。当時、天下統一に向けて力を伸ばしていた豊臣秀吉と対立し焼き討ちに遭います。
そこで漆器を作っていた僧侶が各地に流れ散りまして文化を広めたと言われております。こうした時代の流れの中で根来寺の僧が黒江村に出て漆器を作ったわけで、今日いわれている根来塗の源流がここにあります。つまり根来寺の根来です。
根来塗とは簡単に申しますと塗り上がった漆器を長く使っていますと上塗りの漆が手擦れ、拭き擦れなどで擦れて下に塗られた漆が出てきたものです。当時の僧侶は非常に高貴で朱色を使うことを許されておりましたが、長く使いますと下の黒い漆が朱の中に出てきて自然に作り出された模様となって何とも言えない味合いとなります。これが古代根来で現在作られているものは、人工的に研ぎ出して下の黒が出ています。
こう言った歴史を背に都会に出て漆器商を営んだのが黒江屋の前身ですが、まず大阪に出てから江戸へと出てきます、この江戸黒江屋が安永3年(1774)6代目柏原孫左衛門の時代に柏原の経営になり安政3年(1856)日本橋1丁目に移り現在に至っています。
こう言うわけで黒江屋の商標に"柏"がついていおります。当時は諸大名、御奥などのご用をつとめ、明治以降は宮内省のご用もつとめております。お店は中央通りに面し(現在、黒江屋国分ビル二階にて営業)一階は全国の高級漆器を集め、二、三階は婚礼調度品、家具、座卓を陳列しておりました。その頃の婚礼調度品はお屋敷に女の子、お嬢様が生まれるとすぐ製作に入ったと言われており大きなスペースが必要だったと思われます。
柏原家の祖先は加藤清正公の家臣で寛永年間(1624〜1645)都に呉服、小間物問屋の店を開きのち、さらに江戸店として本町に江戸十組問屋仲間に属する小間物、木綿等の問屋を持つに至っています。
江戸店持ち京商人で、現在発祥の京都五条に300年前の屋敷があり、蔵にある絵画や調度品などを年2回洛東遺芳館の名で展示しております。
東京では東京江戸博物館に江戸時代の日本橋の一部が復元されていますが、ここの擬宝珠は黒江屋所蔵の「日本橋の擬宝珠」を復刻したものです。
「通り三軒」は寂しくなりましたが伝統の火は消えてはおりません、漆器産業も他の伝統工芸と同様に産地では後継者不足と言う大きな問題をかかえてはおりますが、地道に漆の木の苗を植えて育てている産地もありますし、長野オリンピック(1998年)では漆メダルのようなすばらしい用途もありますので、この日本の風土に根をおろした文化を守って行きたいと思っております。
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明治時代の木屋漆器店の広告 |
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昭和4年のきん藤漆器店 |
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関東大震災前の黒江屋漆器店 |
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▲黒江屋パンフレット |
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