◆平成25年 秋季展より 平成25年10月1日(火)~11月3日(日) | |
『富士と婚礼調度品』 |
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酒井抱一(さかいほういつ)富士図 絹本墨画金泥 富士の表現には、周囲を薄墨で暗くし、富士山自体は塗り残して白さを際立たせる外隈という技法が使われています。 その富士山に墨の濃淡で表わされた雲が重なっています。 このような表現は、抱一に限らず、墨画の富士図に一般的ですが、抱一の特徴は、雲に用いる墨の滲みを、形がなくなるまで最大限に生かして、富士山の単純な形と対照させる点です。 さらに、この作品は、稜線を真っ直ぐにして、デザイン性の強い琳派らしい作品となっています。 |
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東洋(とうよう) 富士三保松原図 絹本着色 東洋の絵には、どこか素朴で懐かしくなるようなところがありますが、この作品では、特に波の表現にそれが感じられます。 しかし、空間表現は高度なもので、近景の岩、中景の松原、遠景の山並み、そして、さらに遠くの富士と、四段階の遠近法が用いられています。 彩色が次第に薄くなる空気遠近法も効果的で、大きくて、しかも遠方にあるという富士山の表現に成功しています。 |
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駒井源琦(げんき) 富士図 絹本墨画 | 北尾政美(きたおまさよし) 百富士・江戸三囲之図 中版 | |
源琦は円山応挙の弟子の中でも、最も師の画風に忠実な画家でした。この作品も、応挙が描いた「四季富士図」四幅のうちの「春」によく似ています。 近景の山並みには、稚松図から出てきたような若々しい松が描かれていて、春らしい雰囲気を醸しています。 筆の線はほとんど残さず、穏やかな濃淡表現でまとめていて、とても新鮮な墨画という感じがします。 |
賛は大田南畝の狂詩と狂歌です。題には「百富士」とあって、百枚シリーズとして企画されたようですが、実際には、わずかしか作られなかったようです。 吉田暎二の『浮世絵事典』には「七枚を知っている」とあります。 当館も七枚所蔵しています。河村岷雪の『百富士』(明和4年)の影響を受けていますが、風景画としては、はるかに完成度が高く、特にこの作品では、鳥瞰図を得意にした政美の特徴がよく出ています。 |
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鳥居清長(とりいきよなが) 四季の富士・窓中 中版 | 歌川広重(うたがわ・ひろしげ) 富士三十六景・甲斐大月の原 大判 | |
「四季の富士」シリーズの一枚で、季節は冬です。 丸窓から富士が見えている構図は、すでに河村岷雪の『百富士』にあります。その構図自体、遠近感の強いものですが、清長は大きく人物を配して、さらに遠近感を強めています。 近景に大きく人物を描いて、遠景の小さな富士山と対照させる技法は、現代の私たちには珍しくありませんが、歴史的に見れば、かなり高度な技法で、浮世絵界では清長がこの技法の先駆者です。 |
広重最晩年の揃い物「富士三十六景」の中の一枚で、このシリーズの中で最も人気のある作品です。富士の裾を隠している山脈が、甲斐の風景らしくしていますが、この山脈がなければ、武蔵野図によく似ています。 浮世絵版画の富士山図に大きな影響を与えた河村岷雪の『百富士』にも、この図とよく似た武蔵野図がありますが、広重のこの作品は秋草を大きく描いて、遠近感を強調しているのが特徴です。 |
◆平成25年 春季展より 平成25年4月2日(火)~5月5日(日) | ||||
『墨画と浮世絵展』 |
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谷文晁(たにぶんちょう) 人物花鳥押絵貼(おしえばり)屏風一双のうち墨梅図 天保(てんぽう)元年(1830)、文晁(ぶんちょう)六十八歳の時の作品です。 文晁(ぶんちょう)は、五十歳代から江戸画壇の第一人者として活躍していました。 最盛期の文晁(ぶんちょう)には、大胆な筆使いのものがあって、時に批判されることもありますが、この墨梅図では、梅の枝振りを表現するのに効果的に使われています。 このような表現は、弟子の立原(たちはら)杏所(きょうしょ)の葡萄図にも通うところがあり注目されます。 |
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円満院祐常(えんまんいんゆうじょう) 富士 祐常(ゆうじょう)は二条家(にじょうけ)の出身で、大津(おおつ)の円満院(えんまんいん)の門主を務めました。 円満院の祐常のもとには、円山応挙(まるやまおうきょ)が出入りしていたこと知られていますが、 祐常も瀟洒な作品を残しています。 展示した作品は、輪郭線は使わず、薄墨だけで富士を表わしています。 賛の和歌「たちのぼる、雲も およばぬ、ふじのねに、けぶりをこめて、かすむ春かな」は九条尚実(くじょうひさざね)の書ですが、絵とピッタリと意気が合っています。 |
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円山応挙(まるやまおうきょ) 五柳先生(ごりゅうせんせい) 安永(あんえい)五年(1776)、応挙(おうきょ)四十四歳の時の作品です。 五柳先生(ごりゅうせんせい)とは陶淵明(とうえんめい)のことです。 陶淵明の自伝と言われる「五柳先生伝」の中に、「宅辺(たくへん)に 五柳樹(ごりゅうじゅ)あり」とあります。 この作品では、その柳と頭巾が陶淵明である ことを示しています。 籬(まがき)の下に菊が描かれているのは、陶淵明の有名な詩の一節「菊を採る東籬(とうり)のもと」に基いています。 いかにも応挙らしい円満な表情が特徴です。 |
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葛飾北斎(かつしかほくさい) 潮来絶句(いたこぜっく) | |
「潮来絶句(いたこぜっく)」は、江戸の吉原で流行っていた潮来節(いたこぶし)を、藤堂良道(とうどうよしみち)が漢詩に翻訳し、谷文晁(たにぶんちょう)の弟の東隄(とうてい)が書き、北斎(ほくさい)が絵を描いたものです。 蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)が出版しましたが、 発禁処分を受けていました。 享和二年(1802)頃に、曲亭馬琴(きょくていばきん)の文章や馬琴門人の跋を付けて再版されました。 展示した本には、馬琴たちの文章も跋もありません。 |
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歌川国芳(うたがわくによし) 大物浦(だいもつのうら) | |
嘉永(かえい)三年(1850)前後、国芳(くによし)五十代中頃の作品です。 平家(へいけ)を滅ぼした後、頼朝(よりとも)に追われる身となった義経(よしつね)が、西国(さいごく)に向かう途中、大物浦(だいもつのうら)(現在は陸地となっていて、尼崎市(あまがさきし)の一地区)で平家(へいけ)の亡霊に襲われる場面です。 国芳の傑作のひとつですが、版によって亡霊の姿に少し違いがあります。 この版は亡霊の目が黒く、真ん中あたりの亡霊の一体が雲英(きら)で刷ってあるのが特徴です。 |
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