◆平成28年 秋季展より 平成28年10月1日(土)~11月3日(木)「月曜日は休館です。但し、祝日は開館します。」

「婚礼調度品と漢人物画展」

今回は、展示室の一階に婚礼調度品ときもの、二階に漢人物をテーマにした絵を展示しました。婚礼調度品は、那波家五代目の娘が柏原家の四代目に嫁入りした時の持参品、きものは、三井家七代目の娘が柏原家の八代目に嫁入りした時の持参品と伝えています。以下、展示品のなかから数点紹介いたします。

写真1 厨子棚(ずしたな)

厨子棚は黒棚、書棚とともに三棚と呼ばれます。
黒棚に似ていますが、観音開きの局が二つあるなど、より豪華に作られています。
平安時代の二階厨子が発展したものと言われています。
国宝『源氏物語絵巻』「宿木(二)」には二階厨子が描かれていますが、確かに、厨子棚に似ています。

 

厨子棚

十二手箱 十二手箱(じゅうにてばこ)

手箱は手まわりの小道具を収める箱のことです。十二手箱には十二の小箱が収められています。
小箱は鏡を収めた鏡巣、油入、白粉入などで、鏡巣には白銅の鏡が入っています。

 

十二手箱

  白ぬめ地雪中藪柑子図描絵小袖  

白ぬめ地雪中藪柑子図描絵小袖

白ぬめの小袖に、雪の中の藪柑子を手描きしています。
赤い実は刺繍です。
呉春の落款がありますが、その書体の特徴から、寛政年間(1789〜1801)の初期の作であることが分かります。

 

白ぬめ地雪中藪柑子図描絵小袖

  布袋図 駒井源琦筆  

布袋(ほてい)

布袋は唐時代の末に実在していた僧侶です。
名を契此(かいし)といいますが、いつも布袋を背負っていたので、布袋と呼ばれました。
後に禅僧たちにあがめられ、弥勒の化身とされました。
民間でも信仰をあつめ、日本では七福神に入っています。
この絵の画家は駒井源琦(こまい・げんき)です。
円山応挙の弟子で、応挙の弟子の中でもっとも応挙の画風に忠実でした。
この絵も全く応挙風です。

 

布袋図 駒井源琦筆

  東方朔 東洋筆  

東方朔(とうほうさく)

東方朔は紀元前一世紀頃、前漢の武帝に仕えた政治家です。
後世に、西王母の桃を盗んだという話が作られます。
その桃は三千年に一度実を結ぶもので、長寿の象徴となります。
桃を手にした東方朔の絵にも長寿の願いが込められています。

この絵の作者は東洋です。
陸奥の生まれで、江戸で狩野派を学んだあと、京都で応挙や呉春の影響を受けたようです。
絵は当時の画家には珍しくホノボノとした感じがあります。

 

東方朔 東洋筆

  郭子儀図 山口素絢筆  

郭子儀(かくしぎ)

郭子儀は唐時代の武将です。
自身栄達しましたが、子孫もみんな出世しました。
ですから郭子儀図には子孫繁栄の願いが込められています。
山口素絢は円山応挙の弟子です。
この作品は応挙の「郭子儀図」(三井記念美術館)を写したものです。

 

郭子儀図 山口素絢筆

  五柳先生図 円山応挙筆  

陶淵明(とうえんめい)(五柳先生)

陶淵明は西暦五百年頃の詩人です。
「飲酒」という題の詩に「菊を採る東籬の下」という句がありますが、この作品にも籬と菊が描かれています。
陶淵明の家の側には五本の柳が植えられていましたが、この絵にも柳が描かれています。

また、頭巾も陶淵明独特のもので、それからもこの人物が陶淵明であることが分かります。
絵の作者は円山応挙です。江戸時代を代表する画家のひとりで、温和な画風が特徴です。
この絵の陶淵明も温和な顔に描かれています。

 

五柳先生図 円山応挙筆

  飲中八仙図 柴田義董筆  

飲中八仙(いんちゅうはっせん)

飲中八仙図は、杜甫の詩「飲中八仙詩」を絵画化したもので、唐時代の八人の大酒飲みを描いています。
八人の中では、詩人の李白と書家の張旭がよく知られています。
絵の作者は柴田義董です。
呉春の弟子ですので、四条派の画家ですが、人物画を得意にしました。

 

飲中八仙図 柴田義董筆




◆平成28年 春季展より 平成28年4月1日(金)~5月5日(木)

「役者絵と婚礼調度品展」

浮世絵には大きく分けて、美人絵、役者絵、風景画の三つのジャンルがあります。
いずれも時代とともに写実性を増して行きます。役者絵は勝川春章が登場して、写実的表現は大きく進展しますが、柏原家伝来の役者絵はすべて春章以降のものです。
今回は、勝川春章、勝川春英、鳥居清長、歌川豊国、歌川国貞、歌川国周の役者絵26点、そして豊国、国貞、翠釜亭、流光斎、松好斎の役者絵本11点を展示します。
あわせて、婚礼調度品、雛道具も展示します。以下、役者絵、役者絵本7点、そして商標1点を紹介します。

写真1

役者絵が写実的になり、似顔絵と言えるように なるのは勝川春章(かつかわ・しゅんしょう) からです。
春章は演技する役者ばかりでなく、 楽屋の役者の姿も描きました。
写真1は、楽屋で鏡に向かう四代目・松本幸四郎(まつもと・ こうしろう)の姿です。
鏡に写った幸四郎の顔は、普段の顔と言うより、舞台上のものです。

 

写真1

写真2

勝川春英(かつかわ・しゅんえい)は春章の弟子 です。
春章の役者絵は全身像や半身像ですが、弟子の春好や春英は、顔をクロースアップした大首絵(おおくびえ)を得意にしました。
写真2に描かれているのは、上方の女形・二代目・中村野塩(なかむら・のしお)です。
寛政6年(1794)から五年間、江戸に下り人気を博しました。
多くの絵師が野塩を描いていますが、これほど甘美な野塩は他にはありません。

 

写真2

  写真3  

初代・歌川豊国(うたがわ・とよくに)は、風景版画を得意にした歌川豊春(とよはる)の弟子ですが、他の流派の美人画や役者絵を取り入れて、歌川派隆盛の基礎を築きました。
写真3では、お染役の三代目・瀬川菊之丞(せがわ・きくのじょう)と久松役の初代・松本米三郎(まつもと・よねさぶろう)を描いています。
瀬川菊之丞は千八百五十両の年収があった人気女形です。
写楽も菊之丞を描いていますが、この豊国の菊之丞と比べて見ると、なぜ、写楽が受け入れられなかったか、よく分かります。

 

写真3

  写真4  

春章は楽屋の役者を描きましたが、舞台以外の役者の姿を描く傾向は発展します。
写真4は豊国の役者絵本『俳優三階興』(やくしゃさんがいきょう)の一場面です。
三代目・市川八百蔵(いちかわ・やおぞう)らが上桟敷(かみさじき)の贔屓客に挨拶しています。
贔屓客はかなり上流の女性のようです。周りの女たちは揚帽子(あげぼうし)を被っています。

 

写真4

  写真5  

写真5は豊国が河原崎座(かわらざきざ)の劇場内部を描いた三枚続きの右側のものです。
上桟敷を見ると、写真4の女たちのように揚帽子を被った女性たちの姿が見えます。

 

写真5

  写真6  

春章以来、役者の舞台以外の姿が表されるようになりました。
しかし、舞台以外でも舞台上の顔で表されていました。
写真6の役者絵本『役者此手嘉志和』(やくしゃこのてかしわ)で、豊国は舞台上と普段の顔を描き分けるという試みをしています。
写真は五代・松本幸四郎(まつもと・こうしろう)で、左の普段の顔では目が小さく表されています。
実際、幸四郎は鼻が高くて目が小さかったそうです。

 

写真6

  写真7  

上方は歌舞伎発祥の地で、江戸に劣らず歌舞伎は盛んでした。
しかし、役者絵は江戸ほど流行りませんでした。画風も江戸のような華やかさはありませんが、リアルな表現が特徴で、写楽との関係が指摘されることもあります。
写真7の『翠釜亭戯画譜』(すいふていぎがふ)は、天明二年(1782)に大坂で出版された役者絵本で、上方役者絵の最初期のものです。
作者の翠釜亭については、ほとんど分かっていません。
江戸の春章の影響を受けていますが、女形の顔に明らかなように、江戸ほどには美化しない上方役者絵の傾向がすでに現れています。

 

写真7

  写真8  

京都の建仁寺の近くに、春宵堂(しゅんしょうどう)という、化粧品や薬をあつかう店がありました。
写真8の帖は、その店のラベルやチラシを集めて貼ったものです。江戸の春章や清長の絵も使われています。
この春宵堂は山下甚吉(やました・じんきち)という女形役者の店だったようです。写真7の女形が甚吉です。

 

写真8