◇令和5年 春季展より  令和5年4月1日(土)~5月5日(金)月曜日閉館 午前10時~午後4時 (最終受付午後3時45分)

円山応挙と貝合わせ展
 一年半ほど前に、応挙の日記と写生図を貼った一双の小屏風が発見されました。当館の所蔵ではありませんが、現所蔵者の希望で、当館で初公開することになりました。日記は二年間分ですが、他に応挙の日記が存在することは知られておらず、とても珍しいものです。今回、展示する応挙の小襖六面と呉春の襖八面の内二面も珍しいものです。これらの屏風は当館の座敷を飾るもので、京都市内に、応挙の襖が当時のまま現存している例は他には知られていません。その他に応挙の掛軸を六点展示しました。  恒例になっている嫁入り道具の展示では、これまで何度か貝合わせを展示しましたが、今回、締めくくりとして、全部の貝を展示して見ました。他に、現在、整理中の焼物の中から、古伊万里の皿五枚を展示しました。

写真1
一階の展示 右の襖絵は呉春、左の小襖絵は応挙。

一階の展示 右の襖絵は呉春、左の小襖絵は応挙。
 

写真2
一階の展示 左の小屏風は応挙の写生図、右の小屏風は応挙の手紙。

一階の展示 左の小屏風は応挙の写生図、右の小屏風は応挙の手紙。

写真3 二階の展示

二階の展示

〈応挙の日記〉
   現在は小屏風に貼られていますが、元は二冊の袋とじの冊子であったはずです。切り離された頁を右上から左に向かって並べられていて、天明八年朔日から寛政二年九月六日まで、日付は、一日欠けている以外、連続しています。内容は制作日誌というべきもので、依頼者の名前、画題、形状、画料などが記録されています。金刀比羅宮客殿の虎図襖絵の一部が天明八年八月に描き改められたこと、同じ八月に、松平定信に依頼されて妙心寺の伝牧谿筆布袋図を模写したこと(写真4)、大乗寺の芭蕉の間の襖絵が寛政二年一月から四月にかけて描かれたこと(写真5)、など興味深い記述もあります。

写真4 応挙日記 天明八年八月

円山応挙筆 虎図

写真5 応挙日記 寛政二年一月

岸竹堂 虎図

〈応挙の写生図〉
 日記が貼られた小屏風一隻と対になる一隻には、十二枚の写生図が貼られています。署名も印章もありませんが、記入された文字の特徴、そして写生のレベルの高さから、応挙筆と考えて問題ないと思います。全て同じ時期のものと思われ、一枚には「天明乙巳」(1785)(写真6)の年紀があり、応挙五十三歳の時の写生図です。応挙の写生図は、いくつか知られていますが、それらと比べて、この写生図には技法を示す文字が全くありません。技法を示す文字は、弟子たちが模写して学習するためのものですので、この写生図は応挙の手元を離れていなかったのではと思われます。描かれているのは全て植物で、それも身近にあるものものが多く、水菜やダイコン(写真7)なども写されています。奇想を好まない応挙の性格がよく表われています。技法的には輪郭線をほとんど使っていないのが目立ちます。「ククリ(輪郭線)少なきよし」(『萬誌』)と自ら語っていた応挙は、輪郭線が写実の邪魔になることを知っていたようです。この写生図では、その傾向がピークに達していて、ほとんど形が把握できないものもあります。

写真6

写真6

写真7

写真7

〈応挙の小襖絵〉
   座敷の襖は、普段は無地のものがはめられていますが、慶弔の儀式には絵が描かれたものが使われます。床の間の横の小襖六枚には応挙の稚松図、仏壇前の四枚、東側の四枚には呉春の山水図が描かれています。東側四枚の裏には呉春の芙蓉に鴨図が描かれていますが、その部屋の他の襖にも呉春の絵が描かれていたはずです。これらの襖絵は、様式から判断して、天明末年の作と推定されています。天明八年二月晦日に行われた柏原家初代の百回忌のために、前年中に制作されたものと思われます。天明八年正月晦日に、京都は大火に襲われましたが、当館のある柏原邸は類焼を免れ、百回忌も、ひっそりと行われました。呉春の山水図は四場面に分れていて、東南から春、夏、秋、冬の山水図となっています。応挙の小襖は西北に位置して、季節は冬となり、雪地に稚松が描かれていて、春の再生が表現されているようです。

写真8 座敷にはめられた状態の襖絵。応挙絵の小襖六枚、呉春絵の二枚を展示室に展示

竹久夢二 雑誌『日本少年』明治45年8月号挿絵

写真9 応挙筆稚松図小襖

応挙筆稚松図小襖応挙筆稚松図小襖

写真10、11 応挙筆稚松図小襖

応挙筆稚松図小襖
応挙筆稚松図小襖

写真12 応挙筆稚松図小襖落款

応挙筆稚松図小襖
◇ 令和5年 秋季展「富士の絵と人形と玩具展」 令和5年10月1日(日)~11月3日(金) 月曜日閉館 午前10時~午後4時(最終受付午後3時45分)

今回は、当館所蔵品の中から、富士図、人形、玩具、雛道具などを展示しました。以下、数点を選んで、紹介します。

 
 
一階展示

一階の展示

  二階展示

二階展示

 

〈絵画と浮世絵〉
  今回展示した掛軸の富士図十一点のうち八点は墨画です。狩野周信筆の作品(写真1)は、江戸狩野の典型的な墨画富士図で、外隈(そとくま)と言って、富士の外側を隈取って表されています。これは狩野派に限らず、琳派の酒井抱一、狩野派を学び円山四条派の影響をうけた東洋(写真2)など、展示した墨画のほとんどは、この外隈技法を使っています。例外は三井牧山の作品(写真3)で、外隈は使わず、富士自体に隈を施し、実体感が表されています。牧山は北三井の七代目主人・高就で、人形6の所有者「三井わく」の父親です。

写真1 狩野周信筆 富士図

写真1 狩野周信筆 富士図

写真2 東洋 富士図   写真3 三井牧山
写真2 東洋 富士図    写真3 三井牧山
 
写真5の部分拡大

写真5の部分拡大

二階展示

 

 
写真6 岸駒 二見日の出図 写真7 部分拡大
  写真6 岸駒 二見日の出図    写真7 部分拡大
 
  〈人形〉
 人形は、節句人形に隠れがちなものを展示しました。全て三折(みつおれ)人形で、手足を動かせ、着せ替えをすることが可能です。三折人形は江戸時代後期から明治時代にかけて流行しました。今回展示した人形には、作者の名札が付けられたものが三点ありますが、残念ながら、彼らの活躍期はわかりません。また、天保二年(1831)の『京都商人買物独案内』に記された手遊人形を扱う店の一つに「柏屋孫左衛門」の名前がありますが、店で扱った人形が展示した人形の中にあるかどうかは、確認できていません。
 一組の小物があり、人形6(写真7)に付属するものと思われます。その中の帳面には「三井わく」という署名があります。「わく」は絵画3(写真3)の作者・三井牧山・高就の娘で、安政五年(1822)に柏原家に嫁いで来ました。人形6は、それ以前に作られたものということになります。
 人形9(写真8)は、手足を動かせるだけでなく、腹部に小さな鞴(ふいご)が収められていて、押すと泣き声をあげます。
写真7 番頭姿人形

写真7 番頭姿人形

写真8 赤ん坊人形

写真8 赤ん坊人形

〈玩具〉
 今回展示した玩具は、柏原家十代目主人が子供の頃、すなわち明治時代後期に購入されたものと思われます。舶来品か日本での模倣品で、ゼンマイ仕掛けのもの、玩具(写真9,10)は現在でも動きます。

写真9 メリーゴーランド

写真9 メリーゴーランド

          
写真10 自動車 ドイツのレーマン社が1904年から1935年まで製造したもの。

写真10 自動車 ドイツのレーマン社が1904年から1935年まで製造したもの。