◇五十周年記念・令和六年春季展 江戸時代の婚礼調度展 令和六年四月一日~五月五日

今回は、開館五十周年を記念して、里代持参と伝えられている婚礼道具をメインにして展示します。
伝里代持参の道具類は、最近では部分的に展示してきましたが、今回は一式全てを展示し、それに加えて、他の奥様持参の道具と、三井家で制作されたと思われる着物三点を展示します。さらに、黒江屋製造の秩父宮妃殿下旧蔵の雛道具を初公開します。

 
展示室一階
写真1 展示室一階
 
展示室一階
写真2 展示室一階
 

 伝里代持参の婚礼道具は、町人の婚礼道具の珍しい例としてよく知られています。
しかし、里代持参ということは伝承に過ぎず、証拠となる文書などは見つかっていません。
里代が、那波家から柏原家四代目に嫁いで来られたのは十八世紀初頭ですので、婚礼道具もその頃のものとなりますが、以前から、早過ぎるのではという意見が出されています。
確かに、鏡(写真3)の背面に施された蓬莱模様は十八世紀初頭のものとするには早すぎるようです。
鏡には「河上山城守宗次」という銘があります。延享二年(1745)版『京羽二重』の「鏡師」の項に載る「蛸薬師烏丸西へ入町 河上山城」の可能性があります。
明和五年(1768)版と天明四年(1784)版に載る同住所の「河上山城掾」は後継者と思われます。

 
写真3
写真3
写真4   写真5
写真4  写真5
物裁箱(ものたちばこ) (写真4)に収められた小刀には「文珠包重作」(写真5)の銘があります。
 
「文珠包重」の名前は『京羽二重』の延享二年版(1745)と天明四年版(1784)に見られます。襲名された可能性がありますが、十八世紀中頃に「文珠包重」がいたことは確かです。
金工品の銘からは、十八世紀中頃のものと推定できそうです。
写真6   写真7(拡大図)
写真6 写真7(拡大図)
右:(丸に三つ柏) 左:(丸に角立四ツ目菱)

 
「文珠包重」の名前は『京羽二重』の延享二年版(1745)と天明四年版(1784)に見られます。襲名された可能性がありますが、十八世紀中頃に「文珠包重」がいたことは確かです。 金工品の銘からは、十八世紀中頃のものと推定できそうです。
 
写真8
写真8

香筋立(きょうじたて)(写真6)に那波家の家紋・丸に角立(すみたて)四ツ目菱とともに柏原家の家紋・丸に三つ柏の紋が彫られていて(写真7)、那波家から柏原家の嫁入りの持参品であることはほぼ確かです。実は、那波家から柏原家へ嫁いできたのは、里代だけではありません。
延享五年(1748)に、那波家の娘・喜勢が柏原家の五代目主人の後妻とし嫁入りしています。喜勢は初め岸部家に嫁いでいましたが、なぜか那波家に戻っていました。薬箪笥の中の棹秤のケースの裏には、「岸部」という墨書(写真8)があり、喜勢が使っていたものと思われます。
喜勢が使っていたものが混じっているということは、この婚礼調度は、喜勢が持参してきたものかもしれません。なぜ大半の道具が使用されていないかなど疑問は残りますが、持参者の候補としては、里代よりも、喜勢の可能性が大きいように思われます。

 
写真9

写真9

 
写真10

写真10

今回、ほぼ一式の雛道具(写真9)を初公開します。この雛道具には、冠棚があるように、貴族の婚礼道具をモデルにしているようです。
それぞれの道具は木箱に納められていますが、「勢津子」という署名が墨書きされています。(写真10)
「勢津子」とは、秩父宮妃殿下(1909-1995)のことで、この雛道具は昭和三年(1928)の輿入れに際して作られたものと推定されています。
木箱の題箋には「黒江屋製」の印章(写真10)が押されていますが、この黒江屋とは柏原家が経営する東京日本橋の黒江屋のことです。

 
写真11
写真11

今回展示する着物三点のうち二点は三井家ゆかりのものですが、この小袖も(写真11)三井家で作られたものと思われます。
絖地に墨で藪柑子を描き、まわりにわずかに薄青を施し、赤い実は刺繍されています。落款には「呉春」とあり、四条派の祖・呉春の直筆です。
呉春などの絵描きが三井家で着物に絵を描いていたことが知られていますので、この小袖も三井家で描かれた可能性があります。
呉春の落款は寛政時代初期のもので、応挙に影響された画風に変わり始めた頃の作品です。

 
◇令和六年秋季展 めでたい絵展 特別展示 応挙の日記と写生図 10月1日(火)~11月3日(日)

 江戸時代の絵画には、めでたい絵が多くあります。そして、その多くは長寿を願うものです。今回の展示では、当館所蔵のめでたい絵の中から、西王母、東方朔、寿老人、鶴の絵をえらんで展示しました。長寿を願う絵と言えば、寿老人が思い浮かびます。寿命を司る南極星の化身で、短身と長身の違った姿で表されます。日本で成立した七福神では、短身姿を福禄寿とし、長身姿を寿老人としています。西王母は、元は半獣半人の女神でしたが、後に人間の姿の仙女となり、天界にある桃園の主となりました。その桃園の桃を食べると、三千年の長寿を得ると言われています。東方朔は、漢の武帝に仕えた実在の人物で、機知にとんだ変わった人物でした。西王母の桃を三個盗んで長寿を得たといいます。ということは、現在でも、どこかで生きているはずです。めでたい動物といえば、鶴は千年、亀は万年といわれる鶴亀です。特別展示の応挙の日記にも、鶴が十点、亀図が九点記録されています。今回は鶴を選んで展示しました。

 他に、応挙の日記と写生図を再び展示しました。本館の所蔵品ではありませんが、貴重なもので、昨年の春に初公開した折には、ご好評を得ました。

 
写真1 伊年印 鶴図
写真1 伊年印 鶴図

 紙の状態から、元は押絵貼屏風に貼られていたと思われます。文正筆鶴図双幅(相国寺)の「鳴鶴図」に依った作品です。忠実な模写ではなく、黒い羽根には「たらしこみ」が使われ、宗達派の作品であることが示されています。首には文正の原画には見られない羽毛表現が用いられていますが、宗達筆「鹿図」を思い起こさせます。「伊年」印には数種類ありますが、最良のものに近く、宗達自作とは見做せなくても、宗達工房作品の中でも優れたものです。また、同じ姿の鶴を尾形光琳が描いている点でも注目されます。

写真2 光琳銘 菓子箪笥
写真2 光琳銘 菓子箪笥
 
 落とし戸の裏に「青々光琳」の銘がありますが、光琳の真作とは見做せないようです。光琳の蒔絵は、明治時代に至るまでに多くの模造品が作られ、それらは、真作を含めて「光琳蒔絵」と総称されます。鶴を、金平蒔絵、鉛、貝の象嵌で表現していますが、この技法が「光琳蒔絵」の特徴です。群れて飛ぶ鶴の模様は、光琳の香包絵「千羽鶴」(冬木家伝来)に似ています。光琳蒔絵の菓子箪笥は、他に「水葵蒔絵螺鈿菓子箪笥」(京都国立博物館)が知られています。
写真3 渡辺始興筆 寿老人図
写真3 渡辺始興筆 寿老人図
 
 この掛軸を納めた箱には、「福禄寿 雪舟写渡辺始興写」という題があります。雪舟の原画は現存していませんが、狩野家の粉本によく似た雪舟画が写されています。光琳が描いた寿老人にも、この作品とよく似たもの(黒川古文化研究所)があるので、光琳も始興も、同じ雪舟筆の寿老人図を見ていた可能性があります。箱の蓋裏には「寛保甲子正月潢装 南陽」の年紀と署名があります。「寛保甲子」(1741)、渡辺始興は在世中でした。箱書をしたのは、柏原家と関係の深い那波九郎左衛門家の七代目主人の祐昌です。祐昌は、三井三郎左衛門家の主人でしたが、跡継ぎのいなくなっていた那波家に入り、主人となっていました。彼の母は四代目那波九郎左衛門祐英の娘ですが、祐英は尾形光琳・乾山兄弟と面識があったことが知られています。
 
写真4 呉春筆 寿老人図
写真4 呉春筆 寿老人図

 三幅対の中幅で、右幅は亀図、左幅は鶴図となっています。文政七年(1824)二月に江戸で火事があり、駿河町の三井の店も類焼してしまいました。その時、柏原の江戸店から大勢の従業員が手伝いに行きました。同じ年の十二月に、北三井家六代目の高祐から、御礼として、呉春の三幅対が贈られてきました。その記録には題名は記されていませんが、この寿老人三幅対が、それだと思われます。

 
 
写真5 長沢芦雪筆 寿老人図
写真5 長沢芦雪筆 寿老人図

 芦雪は応挙の弟子の中では、現在、最も評価の高い画家です。それだけ個性的という事で、応挙の画風から離れています。軽妙な動きの墨線で構成されたこの寿老人図も、もはや応挙風とは言えません。

 
写真6 西王母打掛

写真6 西王母打掛

 桃が刺繍で表わされているだけで、西王母の姿はありませんが、西王母と呼ばれています。安政四年(1857)、那波九郎左衛門祐利の妻「ユウ」の形見分けとして、柏原孫左衛門の妻「ワク」に送られて来た二領の打掛の一つです。その記録には「西王母」とあります。「ユウ」の実家は北三井家で、やはり北三井家出身の「ワク」の叔母にあたります。この小袖は、享和元年(1801) 、「ユウ」が那波家に嫁いだ時に持参したものと思われます。

 
写真7 三井高祐筆 東方朔
写真7 三井高祐筆 東方朔

 作者は北三井六代目主人・高祐です。今回展示した応挙の日記に記録された三井からの注文は、ほとんど高祐の注文です。応挙の最大のパトロンであり、また、弟子でもありました。この作品が証明しているように、その画技は本格的なものです。

 
写真8 応挙の日記より
写真8 応挙の日記より

 応挙の日記が書かれたのは、天明八年(1788)八月から約二年間でした。後半は再建御所の襖絵の制作に追われて特別な時期でしたが、この二年間で、題名の記された作品のうち、最も注文が多かったのは、「狗児」(子犬)の二十一点でした。寛政二年(1790)八月二十二日には、「松平越中様」老中松平定信からの注文がありました。代金は「二歩」(半両)で、子犬の絵としては通常の値段です。ただし、普通は一日のうちに仕上がる子犬の絵に、二日掛かっていて、やはり、特別仕様だったようです。

 
写真9 応挙の写生図より
写真9 応挙の写生図より

 この屏風に貼られた写生図には署名がありませんが、記された植物名の書体、そして、写生図としての完成度の高さから、応挙の作品であることは間違いないと思われます。「天明乙巳四月」(1785)の年紀があり、他の写生図も、同じ年のものと思われます。その年、応挙は五十三歳でした。今まで紹介されている応挙の写生図は、もっと若い頃のものです。それらの写生図について、すでに輪郭線が少ないことが指摘されていますが、この写生図では、その傾向が一層進んでいます。輪郭線は写実には邪魔でした。写実技法が完成した西欧のルネサンスの絵画でも、輪郭線が消えて行き、それに代わって、陰影法が現れます。応挙の写生図でも、杏子や桃の図では、周囲の色が濃く表現されていて、応挙も輪郭線に代わって、陰影法が必要なことに、ある程度気付いていたようです。