◇令和7年 春季展より  令和5年4月1日(火)~5月3日(土)

蔦屋重三郎と浮世絵師
 もう四十年ほど前のこと、浮世絵を展示した時、京都に住む摺師が見に来ました。小柄な老人で、多くを語りませんでしたが、江戸時代の先輩たちの仕事を見ながら、身体が喜んでいるのが感じられました。浮世絵版画は、言うまでもなく、絵師、彫師、摺師、そして出版を企画した版元の共同作業です。中でも、採算を考え、企画する版元の役割は重要です。今回、大河ドラマに便乗して、版元蔦屋重三郎を取上げました。彼が生きた十八世紀後半の江戸は、上方からの下りものではなく、江戸独自の文化が急速に発達した時代です。蔦屋重三郎はその潮流にうまく乗り、さらにその潮流を盛り上げました。当館所蔵品から、初代蔦屋重三郎が出版した富本節絵入正本、洒落本、狂歌絵本など十八点を中心に約五十点を展示しました。小規模な展覧会ですが、展示品の多くは、保存状態が良く、出版直後を感じていただけると思います。以下、いくつか展示作品を紹介します。

○富本節絵入正本 とみもとぶし・えいりしょうほん
 歌舞伎の義太夫の流派の一つに、江戸時代中期の江戸で生まれた富本節があります。その二代目富本豊前大夫が人気を博しますと、蔦屋は富本節の正本(テキスト)を出版しました。正本には、演じる歌舞伎役者を描いた絵入正本と、テキストのみの稽古本があります。写真1は、天明元年(1781)四月、市村座での公演に際して出版された絵入正本で、絵は北尾政演(きたお・まさのぶ)が描いています。

写真1
写真1 富本節絵入正本 とみもとぶし・えいりしょうほん
 

○絵本江戸爵 えほんえどすずめ
 江戸時代中期の江戸で、狂歌が流行ります。狂歌は和歌の一種で、現実をユーモラスにとらえます。蔦屋重三郎も「蔦唐丸」という狂歌名を持ち、「吉原連」に属していました。天明期(1780年代)には地方へも広がり、ますます盛んになりますと、蔦屋は、狂歌と絵を組み合わせた狂歌絵本を出版します。写真2の墨摺り「絵本江戸爵」は、別の墨摺り狂歌絵本四冊と綴じ合わされています。同じような合綴本が国立国会図書館に所蔵されていますが、それには最後に奥付があり、寛政九年(1797)の出版で、版元は大坂の「和泉屋源七」となっていて、奥付の蔵版目録には、綴じ合わされた五冊がすべて入っています。蔦屋が開版したこれらの本の版木は、寛政九年までに大坂の和泉屋に譲渡されていて、このような五冊合綴本も販売されていたようです。
 歌麿の墨摺り狂歌絵本は、なお北尾重政などの影響が大きいですが、すでに独自の特徴も表れています。写真2は『絵本江戸爵』の柳橋付近の景色です。柳橋を近景に置いた構図はユニークで、北斎の『絵本隅田川両岸一覧』の元柳橋と柳橋の景色に影響を与えているようです。

写真2
写真2
 

○絵本虫えらみ えほんむしえらみ
 墨摺り本に続いて、寛政期(1790年代)に、蔦屋は、歌麿が描いた彩色摺り狂歌絵本を七種類出版します。中でも最高傑作と評価されているのが写真3の『絵本虫えらみ』です。勝間龍水の『山幸(やまのさち)』や師である鳥山石燕の『石燕画譜』の影響が指摘されていますが、写実と色彩の華やかさという点では比べ物になりません。歌麿の画歴のなかでも突然開花したようで、歌麿の才能に驚かされます。トンボや蝶には雲英を施し、白薔薇(写真4)、芋虫、トウモロコシ(写真5)、コスモス、雪の下(写真6)などにはカラ摺りやキメ摺りの技法が使われています。表紙の汚れと虫食いがありますが、出版時の状態がほぼ保たれていて、下巻には数頁を覆っていた薄紙も残っています。

写真3
写真3
写真4 写真6 写真6
写真4 写真5 写真6
 
 

○潮干のつと しおひのつと
 歌麿の狂歌絵本『潮干のつと』(写真7)は、発行年は記されていませんが、『絵本虫えらみ』に続いて、寛政元年(1789)に出版されたものと推定されています。『絵本虫えらみ』に勝間竜水画『絵本山幸』の影響があったとすれば、これには同じ作者の『絵本海幸』の影響が考えられますが、図様の類似は認められません。貝は形が似ていて変化に乏しく、動きもほとんどなく、構図を工夫することが困難です。その代わり、摺りに技巧を凝らしています。黒々とした岩には独特の質感があり、木版とは思えないほどです。伊藤若冲の「貝甲図」(「動植綵図」のうち)の右下に描かれた岩に似ています。

写真7
写真7
 
 

○潮来絶句 いたこぜっく
 潮来の遊郭で生まれた潮来節と、それを五言絶句の漢詩にしたものが書かれ、潮来の遊女たちの生活が描かれています(写真8)。漢詩にした藤堂良道は伊賀藩の江戸詰めの侍でした。彼は、これらの潮来節を吉原の茶屋で聞き、漢詩にしました。この本に奥付はありませんが、享和二年(1802)に、曲亭馬琴が書いた「潮来曲後集」が付けられたものもあり、その年が刊行年とされています。しかし、良道は、文化十三年(1816)に書いた随筆(東北大学・狩野文庫)で、この本の出版を回想して、蔦屋重三郎が絵を北斎に描かせ出版し、よく売れたが、「かく美しき彩色」が問題となって、蔦屋の番頭の忠兵衛が「手かね」の処分を受けたと記しています。そして、それは「廿五六年の昔なるべし」と書いています。そうだとすると、寛政二三年(1790,1791)のこととなりますが、絵は、いわゆる北斎の宗理様式で、早すぎるように思います。この刊行年についての問題は、まだ解決できていません。

写真7
写真8
 
 

○吾妻曲狂歌文庫 あずまぶりきょうかぶんこ
 蔦屋が、天明六年(1786)に出版した『吾妻曲狂歌文庫』は、北尾政演(きたお・まさのぶ)が五十名の狂歌師を歌仙絵に倣って描いたものです。後にいくつか変更があります。当館所蔵本(写真9)の「万象亭」とは森嶋中良の狂名ですが、「竹杖為軽」となっているものがあります。森島は天明六年に「竹杖伊為軽」から「万象亭」に改名しているので、そちらが初版です。ほぼ出版時の状態を保っていて、途中の頁から最後の頁を覆う薄紙が残っています。

写真9
写真9
 
 

○新美人自筆合鏡 しんびじんじひつあわせかがみ
 この『新美人自筆合鏡』(写真10)は北尾政演の傑作といわれています。天明四年(1784)に蔦屋が出版しました。倍大判の紙一枚に、二人の花魁と新造や禿を描き、上に花魁自筆の詩歌を書いています。七枚が帖に仕立てられていますが、このように帖として出版する前に、「青楼遊君之容貌」という題で「大絵錦摺百枚続」を予定していました。実際、少なくとも二枚は出版されたようで、この帖に貼られた「大文字屋」「松葉屋」には「青楼名君自筆集」という題があり、落款と商紋があるのは、そのなごりと思われます。計画を変えて帖仕立てで発行した当初は、前編、後編二冊の予定で、前編の題箋には「前編完」とありました。ところが再び変更され、一冊となり、題箋から「前編完」が消えました。天明三年の九月に、蔦屋は日本橋の通油町に進出していたので、商紋の上にあった「大門口」という文字が消されました。この帖は、そのような変更を経た後のものということになります。

写真10A写真10B
写真10(二枚の写真をつないでいます。実際には、倍大判一枚です。)
 
 

○洒落本 しゃれぼん
 政演は浮世絵師として一流でしたが、次第に山東京伝として洒落本や黄表紙などの戯作の執筆に専念します。洒落本とは、吉原の世界を通人の視点から主に会話体で描いた小説と言えますが、蔦屋が出した山東京伝作『総籬(そうまがき)』の宣伝文句には「よしはらの事を目のまヘにみるようになる本」と説明されています。以下に引用するのは、寛政二年(1790)に蔦屋が出版し、山東京伝の洒落本の傑作と言われる『傾城買四十八手(けいせいがいしじゅうはって)』(写真11)からの一節です。ト書きは()にいれました。

[ムスコ]そんなら、客にほれたのがあるだろう。[女郎]人にほれるのはきらひサ。[ムスコ]そんならわっちらには、なをだろうね。[女郎]ぬしかへ。(かほをみてわらひ)跡は申ンすめへ(ふとんのすみへつけし、くヽりざるを、ひねくってゐる。 )[ムスコ]じらしなさるね。[女郎]モシへ わっちゃたった一つ、ねがいがござんすよ。[ムスコ]どふ云ねがいだ。[女郎]わっちがほれた客しゅうの、きなんすようにさ。[ムスコ]おめへ、今ほれたものはねへ、といったじゃねへか。[女郎]たったひとりござんすよ。[ムスコ]うら山しい事だの。どこの人だへ。[女郎](だまっている。)[ムスコ]どこの人だへ。[女郎]おまヘさ(おもひきっていふ。)[ムスコ]でえぶ、あやなしんなさるもんだの。( むねどき〃 )[女郎]ほんでござんすよ、それだけれど、わたしらがやうなものだから、もうこれぎりでお出なんすめへね。[ムスコ]もってへねへ。おめへのようなうつくしひ女郎しゅだものを。[女郎]あいさ。左様サ。たんとおなぶんなんし。[ムスコ]ほんにサ。よんでさへくんなさるなら、くる気さ。[女郎] うそや。 [むすこ]きたらどふしなさる。[女郎]じつかへ。[ムスコ]しれた事サ。[女郎]マアうそにもうれしゅざんす。[ムスコ]それがうそだ。[女郎]ほんの事サ。

 [女郎]は十六才の突出し。[ムスコ]は、「いかにもよき所のむすことみえる風俗」の十八才。まるで『たけくらべ』の後日譚のようで、清々しささえ感じさせます。これに比べれば、皆さんの恋愛は単なるポルノ。

写真11
写真11
 
 

○青楼年中行事  せいろうねんじゅうぎょうじ
 これは蔦屋ではなく、上総屋忠助が享和四年(1804)に出版したものです。今回展示した絵本の中でも最も保存状態が良く、明治時代の複製本と間違われることがあります。写真12は、壁に貼付けた紙に鳳凰を描く場面。山東京伝の『新造図彙』に「鳳凰 扇屋の壁にすむ鳥なり」とありますが、この図も扇屋といわれています。歌麿が活躍した頃は、扇屋の他に、松葉屋と丁子屋の壁にも描かれていて、歌麿の三枚続きの「松葉楼 歌川 松風 若紫」には松葉屋の鳳凰図が写されています。

写真9
写真12
 
 

○写楽がない
 蔦屋と言えば写楽を連想しますが、残念ながら、当館にはありません。実は、昭和十一年まで、写楽の細版の役者絵が二枚、柏原家にありました。ところが、その年、川喜多久大夫に譲られました。大正六年に作られた柏原家蔵品簿に「昭和十一年川喜多久大夫氏懇望ニ付贈与ス」(写真13)と別筆で記されています。川喜多久大夫は伊勢の旧家川喜多家の当主で、当時、百五銀行の頭取でした。半泥子という号の陶芸家としても知られていて、写楽の愛好家でもありました。当時の柏原家の主人は十代目で、九代目の孫でしたが、実は、九代目は川喜多家からの養子でした。川喜多家に入った二枚の写楽は大切にされ、現在は、川喜多家の伝来品を所蔵し展示する石水(せきすい)美術館の所蔵となっています。今年の秋、二枚の写楽が展示される予定だそうです。

写真13 部分拡大
写真13 部分拡大
 
 

○伝来
 柏原家の七代目は、天明四年(1784)に孫左衛門を襲名しました。その年の三月に江戸に下向し、襲名披露を行い、五月に帰京しました。その時の江戸土産が「永代帳」(写真14)に記録されていて、「錦絵添」という文字が見られます。「永代帳」には、このように主人や息子の江戸土産が何度か記されていますが、他にも「紅絵」「江戸絵」「絵本」「絵半切」の文字が見られます。もちろん、これらは餞別に対する御礼で、柏原家には残らなかったはずです。しかし、主人自身のため、あるいは家族のための土産もあったはずです。また、従業員がもたらす江戸土産もあったはずです。現在、当館にある浮世絵の由来を考える時、このような江戸土産の可能性が大きいように思われます。

写真13 部分拡大
写真14 部分拡大