◇令和八年春季展 お雛様と人形たち展 4月1日(水)~5月3日(日)

 今回は、雛人形、五月人形を中心に展示しました。雛人形の展示は、多くの美術館で開催されています。それらと比べると、今回の展示は、量的には少々見劣りします。
 しかし、全て柏原家か黒江屋に関係するものであるという点はユニークではないかと思っています

○涌のお雛様
 今回の展示のメインとなる雛人形(写真1)は、約二百年ほど前のものです。女雛(写真2)の敷物の裏に「涌(わく)」(写真3)と書かれていますが、「涌」とは、柏原家八代目主人の夫人です。涌は三井高祐(たかすけ)の娘で、この雛人形は、嫁入り前に三井家で誂えたものと推定できます。江戸時代の商家の雛人形で、所有者が分かり、制作時期が推定できるものは、珍しいのではないかと思われます。雛人形ではありませんが、三つ折れ人形のなかに、涌のものと思われるものがありますので、それも展示しました。
 男雛、女雛に、三人官女(写真4)、随身、五人囃子、仕丁(しちょう)が付随していますが、仕丁の箱には大正二年に新調されたことが記されています。五人囃子も後に付け加えられたものと思われます。雛屏風の鳳凰図は三井高福(たかよし)が描いたものです。

写真1
写真1
写真2 写真3
写真2   写真3
写真4
写真4

○五月人形
  応神(おうじん)天皇と武内宿禰(たけうちのすくね)(写真5)をメインに展示しました。応神天皇は十五代天皇で、武内宿禰󠄀はその側近です。天皇の父は仲哀(ちゅうあい)天皇、母は神功(じんぐう)皇后です。八幡神(やわたのかみ、ハチマンシン)として武士に崇められ、その延長線上に、五月人形として飾られるようになりました。現在では、ほとんど見かけませんが、戦前の京都ではよく見られたそうです。今回展示したものは、明治末年から大正初期のもので、柏原家十代目主人が幼少の頃、誂えたものではと推定しています。今回が初めての展示です。

 
写真5
写真5
 

○祐信の絵本
  十八世紀前半の京都に、西川祐信(すけのぶ)という画家がいました。絵本の挿絵画家として活躍しましたが、当時の京都の風俗、特に女性の風俗を描くのを得意にしていました。その中に、いくつか雛祭りが描かれていますが、『絵本和泉川(いずみかわ)』(寛保2年・1742・写真6)には男雛と女雛の二体、『絵本十寸鏡(ますかがみ)』(延享5年・1748・写真7)には四体の雛が男女交互並んでいて、段飾りはありません。

 
写真6 写真7
写真6
絵本和泉川 (寛保2年1742)
写真7
絵本十寸鏡 (延享5年1748)

○秩父宮妃殿下旧蔵雛道具(写真8)
 二年前の春季展での初公開に続いての公開です。それぞれの道具は箱に納められ、箱には「勢津子」(写真9)と記されています。「勢津子」とは秩父宮妃殿下のことです。箱に貼られた題箋(写真9)には「黒江屋製」の印が押されています。日本橋の黒江屋が雛道具を扱っていたことは、黒江屋の引き札(店紹介のパンフ・写真10)に、扱い商品の一つとして雛道具が記されていて、確かです。

 
写真5
写真8
 
写真9 写真10
写真9 写真10

○浅草海苔
 人形の他に、貝合わせの貝、千代紙、浅草海苔包装紙(写真11)なども展示しました。浅草海苔包紙は初めての展示ですが、準備中に、永楽屋の包紙二枚(写真12)に、海苔が一枚ずつ残っているのが見つかりました。まだ、十分な調査はできていませんが、そのうちの一枚を、ほかの包紙とともに展示しました。

 
写真11 写真12
写真11 写真12
◇令和八年秋季展 江戸みやげ展 10月1日(木)~11月3日(火)

 江戸時代から現代まで、江戸東京みやげは大量に作られていますが、ますます評価の高まる浮世絵の他は、あまり保存されることはありません。ところが、当館には浮世絵はもちろん、浅草海苔の包紙・千代紙・うちわなど、江戸時代から明治時代のものが多数保管されています。収集品ではなく、届けられたままの状態を保っていますので、今回の展示から江戸東京の雰囲気を感じていただけると思います。

○浅草海苔
 浅草海苔の始まりについては諸説ありますが、いずれも確かなものではありません。紙のように加工された浅草海苔については『江戸砂子』(享保17年・1732)に「今は品川海苔を当所(浅草)にて製す」とあって、その頃までに品川産の海苔が浅草で加工されていたようです。しかし、やがて浅草ではされなくなり、江戸時代後期には加工も品川・大森でされていました。

○海苔の包紙
 喜田川守貞の『守貞謾稿』(天保8年~慶応3年・1837~1867)に浅草海苔について記事があります。浅草海苔は品川大森で生産され加工されているが、浅草海苔と俗称されていると述べ、品川大森の店の看板を説明した後に、包紙について「鞠御紋を描き・・・新干海苔と書し左右に地名屋号を記す。近年其包を精にし、四方包とし四ツ手と唱ふもの多し。江戸にて売るも看板包紙其他皆然り」と記しています。本館には二百点以上の浅草海苔の包紙が保存されていますが、ほとんどは四ツ手であり、江戸後期以降のものです。菊御紋があるものは、明治になって菊御紋の一般での使用は禁止されるので、それ以前のものとなります。

 
四ツ手包紙を開いた状態
四ツ手包紙を開いた状態

○海苔の実物
 江戸時代には、浅草に海苔店が多く、中でも幕府の御用を勤める永楽屋が有名でした。永楽屋の明治初期の包紙二点には、それぞれ一枚の海苔が残っています。明治10年に来日し、東京大学で教鞭をとったエドワード・モースが米国に持ち帰ったコレクションの中に、現物の浅草海苔が数枚残っていますが、日本国内に残っている例は当館のものしか知られていないと思います。

 
永楽屋の包紙の表 海苔
永楽屋の包紙の表   海苔

○山形屋
 明治になって、海苔店の中心は浅草から日本橋に移ります。日本橋釘店(くぎだな)で現在でも営業している山形屋は、同店のホームページによると、創業は明和元年(1764)で、10数年後に釘店に移ったそうです。菊御紋のある山形屋の包紙には、絵入の包紙が伴っています。海苔を絵入の包紙に包み、それを四ツ手の包紙に包んでいたようです。
 菊御紋が使用できなくなると、やがて山形屋の包紙には博覧会などでの受賞メダルが描かれます。メダルが二個のものと四個のものがあり、二個のもののメダルの年号は明治9年と10年、四個のものは14年と16年のものが追加されているので、メダル二個の包紙は明治10年から14年のものと判断でき、四個のものは明治16年以降、それに近い頃のものと推定できます。

 
メダル四個の包紙 メダル二個の包紙
メダル四個の包紙   メダル二個の包紙

○ラベル
 包紙ではなく、ラベルに四個のメダルを描いたものがあります。モース・コレクションの海苔は、それが入っていたブリキの缶も残っていて、それに貼られたラベルと当館のラベルは似ているので、ブリキ缶のラベルと推定でき、メダル四個なので、包紙の例から明治16年以降、それに近い頃のものと推定できます。ラベルはもう一点、メダルの無いものもあります。それには東京を「TOKEI」と表記していて、「TOKYO」と表記したメダル入りのラベルよりも古く、ブリキ缶か桐箱のラベルではなかったかと推定しています。

 
山形屋のラベル二種
山形屋のラベル二種

○山本徳治郎店
 現在も室町一丁目で営業している山本徳次郎店は、同店のホームページによると嘉永2年(1849)に、現在と同じ場所で創業されたそうです。山本徳治郎店の包紙には、「告條」と記した引札を刷り込んだものが二種あります。電話番号の入っていないものは、電話サービスが始まる明治23年より前のものと推定できますが、品目にはブリキ缶入りや瓶詰めがあり、新しい時代を感じさせます。

 
山本徳治郎店の引札入り包紙
山本徳治郎店の引札入り包紙

○江戸店からの土産(みやげ)
 海苔店のものではない包紙が一枚あり、「御献上 新海苔二百枚 本町店」と書かれています。本町四丁目にあった柏屋の江戸店の従業員が、京都の主人に献上した土産の包紙と分かります。これによって、一回二百枚単位で、海苔と包紙は別にして運ばれ、京で包まれ、その余りの包紙が残ったものと推定できます。

 
御献上海苔の包紙
御献上海苔の包紙

○江戸土産
 柏原家の記録『永代帳』には江戸土産が四度記録されています。いずれも七代目の主人が江戸に行った帰りの土産ですが、初めの二度は孫左衛門を襲名する以前のものです。浅草海苔は四度目の文化九年(1812)に初めて現れ、三井八郎右衛門に桐箱入りの二百枚、他の二人に三十枚ずつ贈ることが記録されています。

 
永代帳 文化九年の土産
永代帳 文化九年の土産
 

 三度目までのメインの土産は「真岡木綿」「上田嶋」「府中細工」といった江戸周辺の特産物で、それらの添え物として「江戸絵」「錦絵」「紅絵」が記録されています。江戸の浮世絵が一般的に土産となっていたことは『東海道名所記』(寛政9年・1797)に記されています。その巻六には絵草子屋の店先が描かれていますが、解説に「江戸絵はこの地の名物にして」「海内これを賞して土産の第一とす」とあります。

○江戸名所絵
 木版多色刷の浮世絵は江戸の特産品です。浮世絵には役者絵、美人画とともに風景画がありますが、大都市江戸の街並みや賑わう姿が江戸土産となりました。歌川広重は江戸名所を多く描き、それは明治になって、歌川国輝や小林清親、そして清親の弟子・井上安治へと続きます。

 
歌川広重 日本橋雪晴
歌川広重 日本橋雪晴
 
歌川国安 日本橋魚市繁栄図 歌川国安 日本橋魚市繁栄図 歌川国安 日本橋魚市繁栄図
歌川国安 日本橋魚市繁栄図
 
小林清親 海運橋雪景
小林清親 海運橋雪景

○東京名所図
 歌川広重の江戸名所絵、小林清親そして井上安治の東京名所絵と続いた伝統は、明治後期期に綱島亀吉によって出版された東京名所絵へと受け継がれます。綱島が出版した東京名所絵は木版ではなく石版でしたが、綱島は二代目で、初代は月岡芳年などの浮世絵を出版した版元であり、やはり浮世絵の伝統を感じさせます。

 
井上安治 日本橋夜景
井上安治 日本橋夜景
 
日本橋之図 東京名所図解
日本橋之図 東京名所図解

○千代紙
 浮世絵の木版多色刷の技術は、千代紙に応用され、江戸千代紙は江戸の特産品となります。当館には、名主印・年月改印・版元印がある千代紙が14種あり、幕末のものであることが分かります。版元印のうち名前が分かったのはひとつだけで、他のものは確認できていません。また、大きさが浮世絵とは違っていて、浮世絵の大判よりも少し大きいサイズです。当館の千代紙は、観賞用に収集されたものではありません。千代紙を裏表に張った包紙があり、部分的に切り取られた千代紙もあり、使用するためのものでした。

 
江戸千代紙 江戸千代紙
江戸千代紙 江戸千代紙
江戸千代紙二種

○団扇(うちわ)絵
 団扇は各地で作られていましたが、木版多色刷の江戸の団扇絵は他ではマネのできないものでした。現在、美術品として扱われる浮世絵の役者絵、美人絵、名所絵が、団扇となって日常生活に溶け込んでいたとは驚きです。浮世絵団扇絵は明治になって衰えますが、大正期に今村紫紅などの先進的な日本画家を起用して、榛原からモダンな団扇絵が売り出されました。

 
歌川広重画のうちわ 今村紫紅画の榛原製うちわ
歌川広重画のうちわ   今村紫紅画の榛原製うちわ
榛原製うちわとふくろ 榛原製うちわのふくろ
榛原製うちわとふくろ   榛原製うちわのふくろ